少し落ち着いた…かな

おととい、とある作品のコンテを終わらせて一息ついている。

そもそもそんなに忙しくないのだけれど、色々あって精神的に疲れていたのと体力も落ちていて予定より仕事を引っ張ってしまった。

ちょっと私へくる仕事的には変わっていて大変な内容だったので、それも時間がかかった原因ではある。

大変といっても、ほとんどの仕事は大変な話数を振られるのでいつものことではあるのだけれど。

私も自分が監督の時はベテランに大変な話を拾ってもらって助けてもらっているので、私のコンテで監督の仕事が少し楽になるのなら幸いである。

ここしばらく、以前付き合いのあった若い(といっても三十半ばくらいだけど)演出家の監督作を恩返しもこめて引き受けていた。

最近は三十半ばになれば(もっと若くても)監督のチャンスが巡ってくるようで良いことだ。

三十代は技術もそれなりに身に着いて体力もそこそこある、のでそこで何か作れるチャンスがあれば良い作品が作れる確率も上がる。

我々が面白い作品に出会う確率も上がるという訳だ。

「君たちはどう生きるか」を見た。

不思議な映画だな、と思った。

わかりやすくもなく、わかりにくくもない。

私は取り上げられてるモチーフとして、少し理解できたのは戦争とペリカンくらいか。

他にも理由があってモチーフが選ばれているのだろうけど、私にはその意味するところは定かでない。

わからないからと言って物語を理解するのに苦労する訳でもないので構わないのだが、それを選んだ理由を知りたくなる様な作品だった。宮崎駿に興味のない人は知りたくもないだろうが、子供の頃から作品に影響を受けてきた身としては気になる。

私的なイメージをあまり説明せず繋いでいる様で、大筋の物語自体は分かりにくいと思わないのだが、分からない・分かりにくい部分が何故そうなっているのか、それが知りたくなる様な作品と感じた。

これが最後の長編だろうと思うから、余計知りたくなったのかもしれない。

高畑勲の遺作「かぐや姫の物語」と「君たちはどう生きるか」は対照的だ。

かぐや姫は、とても分かりやすい。

高畑勲という人は一貫して分かりやすい作品を作っている。

宮崎駿は分かりにくい、ということが作品を重ねるごとに明快になっていった。

最後(かもしれない)映画を作る時、何を作るのかというのは興味深い。

宮崎さんは、まだ頑張りそうな気がしないでもないけど、前作からの時間を考えるとさすがに難しいかな。

とにかく「君たちは…」が無事完成したことを寿ぎたい。

私もこの先どんな仕事が出来るのかな…と毎日考えてしまう。

しばらく暇というのは決定している(笑)

はじめは無声

先週金曜に第3回カツベン映画祭で山崎バニラさんと片岡一郎さんの活弁を新宿武蔵野館で観てきた。

活弁はそれほど観ているわけではなく、以前に仕事でご一緒した山崎バニラさんの公演は何度か拝見している程度。

バニラさんの活弁はコメディー作品を扱うことが多いので誰が観ても入りやすく楽しいと思う。

各回楽しそうで時間があれば1日見たかったけど、そうもいかなかったので、バニラさんと、ずっと観たかった片岡一郎さんの回を選んだ。

活弁は活動写真弁士の略なので本当は動詞では無いのだろうけど、「活弁を見る」とか「活弁する」で通じるみたい。

片岡さんは口上で「説明は片岡一郎」と名乗っていたが、弁士が映画につける語りを「説明」と言っていたらしい。

活動写真弁士については、片岡一郎さんが書いた「活動写真弁史」に詳しい。この本がべらぼうに面白かったので片岡さんの活弁はとても見たかったのである。

「活動写真弁史」は映画好きなら間違いなく面白いので読んでほしい。

無声で映画を見るというのは、昔は映像を自分で作るということになれば先ず誰でも体験するようなことだった。

だった…というのは最近はスマホなどで簡単に音付きの動画が撮れてしまうので。プロの世界じゃないと無音で映像を見る機会は少ないかもしれないと思うからだ。

フィルムで映像を作るとき音がないのが当たり前なので初めて自分が撮った映像を見るときは無声である。学生時代、自分が撮った画が映写機がフィルムを送る音をバックに壁に映るのを見てえも言われぬ感動が湧いたのを覚えている。

私が初めて無声映画を見たのは、たぶん高田馬場にあったACTミニシアター。

この映画館、椅子が無くて寝そべって観る!というスタイルで無声映画やマニアックな作品をたくさん上映していた。寺山修司の短編とか、戦艦ポチョムキンとか…。

まあ寝ます。

ポチョムキンとか何度も見てるけど果たして通して見られた記憶がない。

でもマキノ雅弘の「雄呂血」とか面白かったのは、ちゃんと起きて見られてたと思う。

学生時代に無声映画はちょこちょこ見たのだが、弁士付きで見たことはない。

私はバスターキートンの映画が好きだったので当時こぢんまりと行われていた上映会にも行ったが弁士付きで見たことはなかった。

当時(90年代あたり)、弁士で知っていたのは澤登翠さん位で私の記憶では弁士付きで見られる機会はかなり少なかった様に思う。

古い映画でなくとも学生の映画は音をつけるというのは、なかなかハードルが高くて、ほとんど無声の映画は多かった。無声の映画でも面白いものは面白いのだが、つまんなければ圧倒的に眠くなる。面白くても眠くなることはままある。

音が入ると俄然血肉がつくというか実体を伴い身近に迫ってくる感じがするのは随分長く映像を作ってきたけど変わらない。

昔の名作無声映画も、やっぱり弁士付きで見た方が圧倒的に面白い。とバニラさんたちの活弁を見て思う。

まずなんたって解りやすい。

そしてバニラさん片岡さんの声はグッと心を鷲掴みにする響きがある。

もちろん良い映画ありきだと思うけど、活弁は圧倒的に映画を生き生きとさせる。

今まで見た無声映画を弁士付きで見直したいよなー、とつくづく思う。

また活弁聞きに行きたいなー。

実写とアニメと

おとなりに銀河は実写版とアニメ版と同時期の放送となったわけだが、実写版は一足早く終了。

まだ全部見られていないものの、自分の関わったアニメ版とのアレンジの違いなんかも楽しめてとても面白かった。

少し前にアイカツプラネット!で実写の現場を見せてもらったので、手がかかっているところとかアレンジの理由なんかもある程度分かって、作り手目線でも楽しめた。

装飾という部署の仕事ぶりがとても素晴らしかったのが個人的なツボ。

私も仕事で関わるまではよく分かっていなかったのだが、美術と呼ばれる部署は基本的にはセットなんかの設計だけ。実際に作るのは大道具さんで、部屋の中に置いてあるものとか役者が手荷物以外の全てのものは装飾と呼ばれる仕事をする人たちが作る。

作ると言っても1から10まで手作りというわけではなくて既製品と作り物を組み合わせて作品の世界を作っていく。

夜ドラのおとなりに銀河の場合だったら、キッチンの作り込みが素晴らしいなと思った。映る回数が多いので手をかけたということではあると思うけど、生活感の溢れる感じで物が置かれていて、あの感じをアニメで作るのは相当に難しい。

アニメの場合は、ありとあらゆるものを描かなければいけないので、ごちゃっと物がたくさんある空間はとてもカロリーが高い。実写でも、その手間は実は同じではあるのだけど、アニメの方が仕事のカロリー的には高くなってしまう気がする。

なので、ああいう空間作りを見ると羨ましいなと思う。

アニメの得意なのは、既製品にないものを作れること。

実写版では、やはり漫画の中のキッチンとは大分違う形の部屋になっていたが、アニメはほぼそのまま再現している。

実写ドラマで同じことをやろうとすると、まず部屋のセットを作って漫画に合わせて調度品を全部作って……こうなると仕事のカロリーが一気に跳ね上がり、予算と時間がないとちょっと無理みたいな話になる。

アニメは、そういうフルスクラッチな作業は比較的得意だ。

でも、実写もアニメも作業の物量が多くなれば大変なのは同じで重なる部分も多い。

実写もアニメも得意なところ不得意なところがあって、制作陣は最大限自分たちの使う表現方法の良さを活かして作っていくので、そんなことを気にしながら見るとまた違った楽しみ方ができるかもしれない。

「おとなりに銀河」アニメは1話が無料公開中なのでお時間ある方は是非。

向いてるとか向いてないとか

小学生の姪っ子が絵で賞をとったらしい。

絵の写真を見せてもらったところ、ずいぶん上手。

もともと絵を描くのは好きだったみたいだけど、だいぶ前、4、5歳の頃だったか…絵を描きながら描くのは好きだけど自分の絵は上手くないのだ、と言っていた。

私は驚いて、そんな事ないよと返したと記憶している。

多分誰か、大人か友達かに上手くない、と評された事があるのだろう。

当時の絵は子供らしいかわいい絵だった様に思う。立体を正確に捉えてる様な写実的な絵では当然なかった。

絵が上手いとか、下手というのを決定するのはそう容易いことではない。

プロにでもなって写実的な表現を求められて出来なければ、それは下手と言われる。

しかし写実的な表現だけが絵画ではない。

写実的な表現が不得意でもプロで仕事をしている人はいるだろう。

子供の描く絵に上手いとか下手とか評定するのは、相当に難しいと思う。

思うけど、子供の絵を簡単に上手いだ下手だと評価してしまう人が沢山いるだろうことも想像に難くない。

私は子供の頃に絵を褒められた記憶ははなくて、美大受験も落ちまくったし成長してからも下手だったのだと思うが、しかしやっぱり歳を食うほど絵の上手い下手というのは単純には評価できないよねと感じる。

凄く大雑把に言うと描き手が自分の表現したいものが表現できれば技術というのは、それで必要十分なので写実的な絵を描きたいと思わない人が透視図法や立体の表現の技術を持っていなくても問題ないということは当然ある。

アニメーションのスタッフでもアニメーター(上手い人でも)が一様な技術を持っているわけではないし、役職によって求められるものも変わるし何が必要な技術なのかを判別するだけでも結構難しい。

アニメーターの場合、写実的な表現を求められる事が多いのでそれを可能にするための技術が基礎教養として求められるが、キャラクターなどデザイナーの様な役職になった時、全く違う技術が求められたりする場合もあるし技術が邪魔して感覚に寄り添えないということもありそうだ。

漫画の絵の面白さは感覚に重きを置いて描いても成立するところだと思う。

基本一人で描くものは自分の感覚が絵柄を串刺してくれるということが可能だから。

アニメの場合は沢山の人間が同じキャラクターを描かなければ行けないので感覚的な癖の様なものを旧友するのは難しい。どうしても大勢の人間が共有しやすい様な平均化の作業が必要になる。

漫画家の絵にしてもアニメーターの絵にしても必要とされる技術の差異はあっても、それは絵の上手い下手とは別だ。

芸術と呼ばれる様な分野の中で究極的に上手いとか下手とか決めるとするならば表現したいものが表現できているのか、そうでないのか…位しか判断基準は無いように最近は思う。が、表現が達成されているされていないの判断をするのも容易でないので、やはり上手い下手を決めるのは難しい。

技術の部分であれば上手い下手を決め安いとは思う。

立体をうまく捉える事ができるか、透視図法を理解しているか、とか。

技術は、基本的には共有可能なものとして作られているので比較もしやすい。

しかし、そうでない表現の本質的な部分に分け入っていくには批評の様なややこしい分析が必要になるだろう。

子供の絵にそんな面倒な批評が必要な訳でもない。

大人のアドバイスが必要な場面があるとしたら、子供がリンゴを描きたいと思っていて、しかし自分の描きたいと思っているイメージと差異がある場合とか、他人に見せた時、自分が表現したい物が伝わっていなくて傷ついた時とかだろうか。

後者は余計なお世話になる場合もあるが…。

姪っ子に私の言葉が響いたのかどうか定かでないが、自分が楽しいと思う事を楽しそうに続けているのは何よりだ。

好きこそものの上手なれとも言うし、人生の楽しみを一つでも多く持っているのは良い事だよ。

観劇からの感激

先日、ロロ『BGM』を見た。

ロロは、ここ何年か追っかけていて公演があれば大体見ていると思う。

コロナの前は他の劇団もたまに見ていたけど、落ち着いてからも忙しかったこともありロロ位しか見られていない。

しかし、演劇もライブも元の状態に戻れそうなので嬉しい限りだし時間があれば色々見に行きたい。

ロロを初めて見たのは「ハンサムな大悟」だったかと思う。

板橋駿谷さんは強烈に印象に残ったが、全体として自分が普段やってる仕事に近い事をやっているのに表現として全く違うし思いもつかない様なことをやっているのが面白くて嵌ってしまった。

三浦直之さんの劇作、演出は色々なものの境界を曖昧にする、又は同じレイヤーというか同じ次元に重ねて見せてしまうというところが強烈に好きだ。

時間や場所や個性や現実と非現実、普通重ならないものを重ねて見せて、見えないものが見えてくる。

私の作っているアニメーションは、実はそうしたことがとても得意な表現技法なのだけど三浦さんの様なことをやっている作品はあまり見かけない。無いわけでは無い。

舞台ならではのシンプルな美術(舞台装置)の中で時間や様々なものが重なり変化していくのは不思議だが自分の中の観念の世界を感じて自然でもある。

劇作の中で扱われる題材は根の部分はそれほど突飛なことは少ない、と思う。突飛な世界でも地に足がついている感覚がある。それは役者の力量のおかげでもあるのかもしれないが。

なのに夢の様な魅力的な世界が見えてくるというのは素晴らしい。

特に今作『BGM』は友達の結婚式に行くという、ただそれだけの事が描かれているだけだ。だが劇的だ。

日常が魅力的に見えるというのは素晴らしい、自分もそういうものを作りたい、と思っていることもあって『BGM』はとても好きな作品だ。

今回は再演であったので筋は概ね知っていたが、思っていたより雰囲気が変わっていた。音楽が変わったのが大きかったのかもしれない。

表現技法の特質をうまく使った表現というのは、やはり個性的で刺激的だし三浦直之の舞台は、いつもそれを明快に見せてくれて好きだ。

しばらくはゆるりと

ゆるりと仕事再開。

しばらくは絵コンテマンとして活動することになりそう。

全く知らない監督の仕事はあまり来ないものではあるのだが、自分ではない人にコンテを提供するときはどういうスタイルがいいのかなという探りを入れたりしてなるべく監督のスタイルに合う様に考える。

とはいえ、他人と同じものは絶対に描けない。

絵コンテだけの仕事を請け負う様になってずいぶん経つけれど、真似しずらい理解しずらい微妙な表現はオーソドックスに作る様にしている。

絵コンテにオーソドックスも何もあるのか、と言う向きもあるかもしれないが有る。

キャラクターの捉え方(人物造形)お話の捉え方が極端に間違っていなければ、あとは基本的な映像文法を守ったあげるだけで監督は絵コンテの修正が圧倒的に楽になる、と経験的には思う。

キャラクターとかお話の理解を除くと、技術的な違いが大きく出る部分は3つある。

一つはイマジナリーラインの作り方。

一つはカメラの高さ。

一つは話題の対象を写すかどうか。

一番面白いなあと思うのは、話題の対象を写すかどうか、のところだと思う。

話題の対象とは何かというと、例えば何か会話をしている人物が二人いたとして、そのうちのしゃべっている人を写すかどうかみたいな事だ。

そんなの普通しゃべっている人がいたら、その人を写すでしょと思うかもしれないが意外とそうでもない。

しゃべっている人の話を聞いている相手はどんな顔をして聞いているのか、という事が重要な場合はその表情を写すということがあるが、この場合は一般的な話題の対象を写しているという認識で良いと思う。

例えば、長いしゃべりの時に窓を写すみたいな演出はアニメでは非常に良くあるのだが、私はこれは話題の対象を写さない演出に分類する。

これが悪いというわけではないのだが、外す必要がないのに外している場合や、外してはいけないのに外してくる人もいて、さて何故だろうかと考える事が時々ある。

話し手の表情を想像させる、セリフに集中させる、それぞれに色々理由があってやっていることだろうと思うのだけれど憧れた作品からの影響というのも強くあるのじゃないか。

エヴァ以降といって良いかと思うのだけれど、深夜アニメなどで対象との向き合いが少し変わっている様な変わった演出が流行っていたと思う。

その影響を強く受けている人は結構いて、その事に自覚的ではない人もおり、自覚的でないと作品によっては全然合わない場合がある。

最近の主流は割とオーソドックスなスタイルに戻っているという印象を私は持っていてオーソドックスはやはり出来た方が良いと思う。

オーソドックスなものは見飽きてつまらないみたいな時代は終わってしまってオーソドックスなものしか見られないような時代になってしまった気もして、それはそれでどうなのよと思うけど伝統の中で育まれた王道なスタイル、方法論はやっぱり重要。

大作映画も基本的にはオーソドックなスタイルに則って造られている様に見受けられる。

まあしかしオーソドックスが体系的に教えられている場所、というのが今はハッキリと存在していないと思うので伝統が教えられる場所があるといいね。

ハッキリ教えられてないのに、やっぱり存在する伝統問いのも凄いもんだと思うが。

4月の近況

4月1日は「おとなりに銀河」の1、2話先行試写会があり、覗きに行った。

一般の方向けの試写だったので当然お客さんの反応が見たくて行ったのだが席は最前列だったので、あんまり分からず。しかし上映後は拍手をいただいたので、まあ概ね好評価であったと解釈させていただきました。

私の隣には原作者の雨隠ギドさんと旭プロダクションの河内山P。ギドさんとは最終話のアフレコ以来の再会かと思う。

もののがたり、おとなりに銀河と原作ものを監督として担当するのは初めてだったが、快適に仕事をさせてもらった。おとなりに銀河は実写ドラマも同時期の放映となり、比べて見ていると技法の違いや尺のフォーマットの違いで原作のアレンジの仕方が違っているのがとても面白い。

アイカツプラネット!で実写の現場を見せてもらったので違いが分かりやすく感じられて楽しい。

偶然だけれど実写の方にアイカツプラネットでディレクターとして入ってくれていた國領くんが参加していて、そこも楽しみなのです。

まさか同じ原作で仕事しているとはね…とお互いびっくり。

あちらは15分枠で帯なのでアニメの方がゆっくり展開することになる。

最近読んだ本

「会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか」ニック・エンフィールド

これは思っていたより面白かった。

会話は言語だけで成立しているのでは無いうような研究を一般向けに解説したもの。言語学だとあまり大きく扱われてこなかったような分野の研究が最近進んできたらしい。我々は虚構の会話をたくさん作るのだが虚構をそれらしく聞こえるようにするという技術は経験的な感覚に頼ることが多い。

こういう研究を読むと自分達の感覚は、ある程度間違ってなかったという確信が得られるし、創作にある程度客観的な根拠を持って迷わず作れる。

基本的には英語の会話ついての研究が軸なのだが、会話は言語関係ない構造があるという辺りが面白い。

とはいえ、まだまだ研究は始まったばかりという雰囲気なのでこれからに期待したいのと、参考文献をもう少し読んでみたいという気になった。

「語り芸パースペクティブ」玉川奈々福 編著

これはしばらく前に出た本なのだけれど、とても面白かった。

日本には様々な語り芸が有るのだけれど、その分野の重鎮たちを呼んで実演とその芸について語ってもらった講演記録。

講談だ落語だ文楽だ歌舞伎だと私もほとんどまともに見ていないのだが、自分のやっていることも語り芸の一種と言える気がするし日本の伝統の影響は無意識の中に必ずあると思う。

自分のやっていることのルーツを探りたいというような事で伝統芸能、特に語り芸には今大変興味がある。

この本は芸能のつながりの一端を垣間見せてくれてとても良い。

今更だが古典を勉強してみようと思わされる一冊だった。

一息ついた

去年からの仕事は大体片付いて、突発の仕事もまあ落ち着き、TAAFの長編のコンペの審査が終わって目の前の仕事はほぼ終了。

TAAFこと東京アニメーションアワードフェスティバルは、何で私なんかが審査委員に選ばれたのだろうという気はするが、あまりイベント的な場所に呼ばれることもないのと海外の審査員と数日一緒に過ごしたのが新鮮で楽しくやれた。どうにも自分の英語力の無さにはがっかりしたのだが、通訳の方が基本的には同行していたのでコミュニケーションは、それほど不自由しなかった。

それにしても、コンペに来ていた海外の審査員や作家は(私から見ると)流暢に英語を話す人が多い。母国は違っても英語でコミュニケーションしていて感心。

作品は長編は4本ノミネートされていて、さすがにどれもそれなりのクオリティだったが、個人的にはティティナという2Dの作品が一番気に入った。北極が舞台になったいるのが、以前TAAFで賞を取ったノース・ウェイ・ロングと同じなのだが、それは監督の話を聞くとただの偶然みたいだ。ノルウェーでも探検家アムンゼンとイタリアの飛行船技師ノビレの逸話はあまり知られていないらしく、面白いと思ったので取り上げたというようなことらしい。

基本的には実話に基づいていて、当時撮影された記録映像も交えて作られている。

ミュージカル的な表現も交えて非常に楽しく見られる様になっている。特に前半は。後半の展開もどこまで史実に忠実なのか分からないが非常に劇的。戦争の足音が近くに感じられる時代の話なので今見ると非常に考えさせられるものがあると思う。

グランプリを獲った「犬とイタリア人お断り(No Dogs or Italians Allowed)」も戦争の時代をモチーフにしていて、こちらも事実に基づいたストーリーで現代的なテーマを抱えていると言える。こちらは人形を使ったストップモーションアニメ。ユーモアが効いていてシリアスの話だが楽しく見られると思う。

審査は特に揉めるという感じでもなかったのだが、グランプリはあっさりと全員一致で決まり、もう一本が票が割れてなかなか決まらなかった。

クオリティーに決定的な差がないと、選ぶのはなかなか難しいもんだ。

結局、短編部門の作品は全然見られてないので、機会があったら見たい。

1、2月は立て込んでいたので、休んでいたJAniCAの配信も久しぶりに出来た。

「演出について」というお題で、新人演出に演出について説明する様な体で話した。分かりやすい解説という意味では、まだ大分改善の余地がありそう。話題の順番やら細かな例の使い方とか、参考資料とか。

参考資料は自分じゃ適当に色んなものの断片を繋げて使っているのだが、人に教える時は、具体的に参考になる資料を探しておく必要がある。でないと永遠に解説が終わらないし根拠ないことを話していると思われても困るので。

しかし、資料を当たるのは目星はあるものの結構時間がかかるので、少しづつやるしかない。

自分の仕事は、放映中の「もののがたり」は来週最終回、4月からは「おとなりに銀河」が始まる。

両作品とも制作は終わってるので、のんびり放映を見るだけ。

しばらくは映画見に行ったり、本読んだり好きなことに時間を割けそう。

事務的なこともこなさないといけないのではあるが………。

10年…だって

2023年1月20日、今週の金曜から映画『アイカツ!10th Story 〜未来へのSTAR WAY〜』(タイトル間違っとるかもしれん)が公開になる。
先日、初号試写というやつをやった。
初号ってなんだよ、っという御仁に少し説明するとひと昔前まで映画は合成樹脂の透明なフィルムに映像を焼き付けて後ろから光を当ててスクリーンに映写していたのだ。
テストで焼いたフィルムを0号といって、調整を経てお客さんに見せられる状態で焼かれたフィルムを「初号フィルム」と言っていたのである。
フィルムを焼く、という表現も若い人には甚だ分かりにくいと思うが割愛。
今はDCPというデータで上映されているので、お客さんに見せられる状態のDCPの映像を初めてスクリーンで関係者が見る事を初号試写と呼んでいる。

出来上がった作品は何度か見ているので、さすがに落ち着いて見られたのだが、集まった関係者の懐かしい顔を見ていてグッと込み上げるものがあった。
放映開始から10年経ってるので、立ち上げからアイカツ!のプロジェクトに関わっていた人は殆どいない。
私もアニメの企画が始動を始めてから入ったので、本当の立ち上げから関わってるのは加藤陽一くん位かもしれない。
とはいえ私もほぼ立ち上げメンバーで、アニメの現場で立ち上げに関わっていた人は今アイカツチームには私以外いない。
試写では、そんな立ち上げ当時のメンバーが結構集まってくれた。
作品に直接関わってくれている人ももちろんいるが、もう離れている人ともちらほら来てくれていて、とても嬉しかった。

MONACAの作曲家・帆足くんとは何年ぶりかで会えて思わずハグしてしまった。
アイカツ!的、作詞家・御三家の辻さん只野さん、こだまさんも来てくれていた。
只野さんは、試写の後ずいぶん長い事ロビーに残って話し込んでいて帰りもご一緒してしばらく話し込んだ。
只野さんは20年近く続いているプリキュアにアイカツ!より長く関わっているので、色々話して励みになった。

関係者は、監督にとっては最も先に反応してくれる観客だ。
意外と関係者の反応はビビットなので、見せる前はドキドキする。
試写の後の皆んなの反応を見て少し安心できた。
これで観客・ファンに見せられる、と思えるようにはなったのだが、まだ怖い気もする。
作品は終わって仕舞えば完全に観客のものだ。
観客の心の中に残っているものが全てだ。
アイカツが終わったときは娘を送り出した様な気分になったのを憶えている。
今回の作品は、一旦、観客の手に渡したものをまた返して貰って作った様なものなので非常に緊張している。
ただただ楽しんでくれる事を願うばかりだ。

今回の映画は完全に昔見てくれていた人に振り切って作っている。
当時、アイカツ!がメインターゲットととして想定していたのは7〜9歳の女の子。今、高校卒業したかしないか位の年齢の人たちだが、その世代の人たちに向けて作った。
なので卒業をテーマとして取り上げてある。
10年経つと当時ファンだった子がスタッフとして働いていたり、演者として関わっていたりもする。
私もアイカツ!に関われた事で色々な経験をさせて貰った。
今度の映画はそういう色々への感謝の気持ちも込めたつもりだ。
いや…大仰な内容ではないのだけれど、むしろこんな話で大丈夫なのか?といまだに心配だけれど、オールドファンは楽しんでくれるのではないかと思っている。

なにはともあれ、もうすぐ公開である。
この映画をきっかけに、しばらくの間ファンも関係者もアイカツ!10周年を楽しんでくれたら、こんなに嬉しいことはない。

バスケはよく知らないが…

近所の映画館でスラムダンクがやっていたので見に行った。
田舎の映画館なので余裕で観られるだろうとたかを括ってギリギリに行ったら、ほぼ満席で危うく入れないところだった。
あんなに人が入っているのは滅多に観ないのだが……。
客層も特に原作を読んでいた人ばかりという雰囲気でもなく、老若男女偏りなくいてヒット映画の典型といった風情だ。
私も原作はほとんど知らず、連載のはじまった頃に少し読んでいたのでキャラクターの名前は多少判別がつくくらいの知識しかもっていない。
私なんぞが言うまでもなく面白い映画だったが、作りが変わっていたのでメモ的に記録しておく。

ネタバレ的なことも書くので読みたくない人は気をつけてください。

 

さて、冒頭は……なんせ地味だなと思う。
絵は素晴らしいものの華のある画面というわけではなく、あの二人が1オン1
をしているというだけで、原作知っている人であればエモいのかもしれないが、まずあの二人の関係が直ぐには分からない。
ポンとワンカット入る手洗い場の上に置かれたリストバンドの画が全編通して重要なアイテムになっているのだが、それも大して長く見せるわけでもなくサラッと映している。
直ぐにはわからない、というのはこの映画の特徴で監督の趣味でもあろうと思われ、とても良い効果を発揮している。
ここでリョータの名前は呼ばれるが、この映画の中で人物の名前が説明的に呼ばれることはない。
説明的に呼ばれることはない、というのはとてつもなく重要。
これも直ぐに分からなくても良い、という監督の明確な態度を示している。
普通、娯楽映画のシナリオであれば新しい登場人物が出てきたら、その瞬間か程なく名前を誰かに呼ばせてやる。
が、この映画ではそれを敢えてしていない。
それはスラムダンクだから原作がよく知られているから、それで良いという判断もあったかと思うが、説明的に名前を呼ぶことに対する拒否がハッキリと観て取れる気がする。
そして、映画が始まってしばらく音楽が鳴らない!
冒頭のムービングロゴの所にはギターが鳴ってるだけ…。
音楽と効果音、音の使い方は、この映画に特異な印象を付けている。
多分初めて劇伴が鳴るのは試合が始まってから(しかも大して盛り上げない)で冒頭のそれなりに長いドラマ部分は効果音だけで作られている。
これは効果さん的には相当に腕が問われるので、なかなかプレッシャーだと思うがよく出来ている。
効果音は全体に非常にいい仕事をしていた。
笠松広司さんの名前がクレジットされているので、よい音響の映画館で見ると随分印象が変わるかもしれない。
監督のインタビューをザッと読んだら音楽の付け方はお任せしたというような事を言っていたので笠松さんが音楽ラインを基本決めたのではないかと思われる。
正確に記憶していないが音楽が使われているのは殆ど試合のシーンだったのではないか。
普通、平場の長いシーンなどでは情感の音楽を付けたくなるものだが、あえてやらないという判断だったのだと思う。
ドラマ部分では音楽で情感、エモーションを盛り上げる様な事は絶対やらないという抑制の効いた態度は娯楽映画としては非常に勇気のいるものだと思うし、実際に来ている客層からすると見続けるのが辛くなるギリギリのところかなと感じた。

試合の間に回想が入る形で進んでいくというのも、話が分かりづらくなりがちなので娯楽としては非常に難しいが上手く見せられていたと思う。
リョータの縦軸の物語が原作を知らなくても他のキャラ含めキャラクターを魅力的に見られる様にしている。
初見の人でもキャラクターをある程度理解できるように回想を作っているのが面白いバランス。
ドラマは非常に抑制されていて玄人好みの日本映画といった風情だが娯楽的にもしっかり目配せされている。
それは前半はあっさりと終わっていく試合シーンの後半の見せ方で花開いていく。

後半の試合のシーンは、えげつない位に娯楽的な盛り上げを絵も音楽も達成していてラスト近辺の音楽の使い方はとにかくあざといし、ラストのシュートが決まった後の無音の長さも普通の人なら勇気がいる様な演出だが非常に効果的だったと思う。ドラマ部分の抑制が試合部分のあざとすぎる位のあざとさを際立たせていた。

ドラマ部分は本当に最後まで抑制が効いていて、人が何か成し遂げるには時間がかかるのだということを試合部分にも重なる様に描いていて非常に良かった。
エンドクレジットの後の画は監督の中に染みついた娯楽精神の表れで稀有なバランス感覚の持ち主だと思う。私が偉そうに言うまでもないが………。
見習いたいものです。

残された人間がどう生きるかというモチーフは「すずめの戸締まり」と同じなのだが見せ方が真逆で新海誠は非常に情動に訴えかける様な見せ方をしているのが好対象。たまたまだろうけど同じ様な時期に同じ様なモチーフが重なるのは何かを象徴している気もして面白い。

もう少し書けるけど疲れたのでこの辺で。
とにかく非常に面白かった。
こういうの書くときは自分のことは棚上げ……。