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銅メダル・値付け【2026年03月08日】

冬のオリンピックは、ほとんど見なかったのだけれどフィギュア女子のフリーだけ、仕事終わって気が向いたので見た。

そもそもあんな機会と場所で滑るということはとんでもなく緊張すると思うのだが上位選手は尋常でないメンタルを持っているのだと思う。

金メダルを取ったアリサ・リュウでとんでもなく湧いた会場の空気に呑まれず演技した(様に見えた)坂本花織を見ていて凄いという言葉しか出てこなかった。

銅メダル17歳の中井亜美嬢はアイカツ!が好きらしく携帯に美月とソレイユのステッカーを貼ってくれている。
17歳だとリアルタイムに見ていたのであれば幼稚園くらいの歳。
あんな、すごいお嬢さんがアイカツ!を好きだというのは嬉しい。

前回書いたアイカツプラネットのライブを見た記事がえらく沢山読まれていて驚く。

普段は植物の話とかだから、ほとんど読まれていないのだが(笑)




福尾匠×小川哲の対談をYouTubeで見ていて小川哲が値付けの問題を話していた。

他のたくさんの人間にとってはつまらない作品でも、たった一人の心に響いてその人間の人生を変えてしまうことはありうる。
しかし、それを2000円で売っても商売にならない、それをどう乗り越えるか考える必要がある。という話をしていた。

それは私もよく考える。

アイカツ!の様な子供向け作品にとっての商売は観客と商売相手に齟齬がある。
子供向けは基本的に子供がお金を直接作品周りに払うことはない。
ほとんどが親を通して参画する。

じゃあ親が考える子供に見て欲しい作品にすれば上手くいくのかというと、そう簡単ではない、と思う。
子供が面白いと思わなければ、商品が売れたりはしない。

単純に考えれば子供が面白がって、(消極的にでも)親が見せてもいい作品が正解、ということになる。

この2番手の視聴者(読者)をどう扱うかが商売的には結構肝だ。

例えば明らかにジャンル的に強いお客さんがいる場合、メインに考える観客をそこに置かない、ということができる。
それはジャンルの強みを利用させてもらいつつジャンルそのものを拡張する試みにもなる。

ニッチな観客にそうでないジャンルの力を使って届かせるということも出来なくもないんじゃないか(簡単ではないが)と思う。

いまアニメはそこそこ商売になれば作品が作れるという状況であると思うけど、オリジナルは「そこそこ」に届かないことが多い。

原作ありが多いのは他にも理由はあると思うけど、「そこそこ」なら上手くやればいけそうな気がする、んだが。
お金集め問題なんかもあったりするので、一筋縄ではないのは分かる。

マンガ・ワン騒動は人ごとではない。
社会復帰=元の職業に就く、とするのは単純には難しいだろう。少なくとも表現界隈の仕事は。

5年【2026年02月23日】

週末はアイカツプラネットの5周年記念のライブに参加。

プラネットは実写+アニメという変わった趣向で作られた。
何度も色んなところで言ったり書いたりしているが、私に話が来た時は何で?無理でしょと即答で断った。何せ実写に関しては素人なのだから。
それが何やかやと巻き込まれ、しかし終わった時には非常に面白い経験をさせてもらったと思った。

当時はコロナ禍真っ只中で、ライブなどとてもできる状態ではなく、せっかく顔出しの仕事をしている演者で作っているのにその真価を活かせる機会は少なく、こちらも申し訳ない様な気持ちだった。
不遇な作品であったと思う。

5年経って小規模とはいえ当時のメンバー(2人欠けてはいたが)が集まってくれたのは非常に嬉しい。
皆んな元気そうだったのも何よりだ。

ライブ中当時の映像が流れていたが、自分が本当に関わっていたのだろうか?という不思議な思いがした。実際、実写パートの撮影には付き合っていたが特に役に立つこともできなかったので半分お客さんの様な気分があるのかもしれない。

音楽も懐かしく夢見心地に聞いていた。

急に暖かくなってきた。

3月後半までは、また寒くなることもあるだろうが春を感じられて嬉しい。

芽が出ないかと思っていたアネモネ・ラナンキュラスも芽吹きそうだ。

寒さで枯れてしまった植物もあるので、少し足したい。

先週見た9話のラッシュは非常に良かった。

演出の頑張りが出ている。

ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【08】ステラ・アドラー「魂の演技レッスン」

役者向けのワークショップを本にしたもの。

ステラ・アドラーはスタニスラフスキーに指導を受けたというので読んでみたが、メソッド演技に凄く影響を受けたというわけではないらしく、割と普通な考え方で指導していたと思われる。メソッド演技に影響は受けているのだろうが直接的には触れられていなかった。

・脚本の読み方

・見えないものも想像する。
脚本に書かれていないディティール(ものがどこにあるとか、ものの重さ固さなど)をしっかり想像することで肉体が自然に動く。

・役の(脚本に書かれていない)歴史を掘り下げて想像する

とか、脚本に書かれていないことをしっかり想像すれば肉体は動く様になる。というのがざっくり全体を貫かれている考え方。


脚本に現れないディティールをどう作るかは、やはり演出家にとってももちろん大事なので参考になった。

終わらん【2026年02月15日】

仕事が終わらん。

久しぶりに原画チェックをしている。
顔が崩れている…からちょこちょこと直しの指示を入れたりは仕方ないと思えるのだが、第2原画を請け負う人たちは多分コンテも読まず、レイアウトに入っている演出指示も読まずに作業しているモンだから指示(簡単な事も)対応が抜けていたり、誰が誰を見ているかなどを理解せずに描いている。
第2原画どころか、作画監督も演出指示読んでないんじゃないかと思う。

連続したカットでも違う人に発注したりしているし、引き絵のカットは描き手が見つからないという理由でアップだけ先に上がってくるので、繋がりを確認できない。

レイアウトで合わせてあっても、つながりで作業者が違うと作業者自身が他の素材を見られないので前後の繋がりの確認ができない。

恐ろしく効率が悪い。

これは今の仕事に限ったことではなく、数年前から中規模作品は全てこんな感じ。

賽の河原で石を積んでいる気分。

少しづつ暖かくなってきた。

ラナンキュラス・ラックスの苗を買ってあったので大きめの鉢に植えた。

去年コガネムシの幼虫に根を食われたプレクトランサスが寒さで完全にやられて枯れたので代わりに植えた。

ラックスは強いので楽しみ。
花の期間はそう長くはないのかもしれないが。

金魚草はよく咲いている。

ストックとプリムラも。ネメシアが花芽がついているが何故か咲かず。

ビオラ。パンジーはこれから大きくなると思うが鉢が小さいかも…。

この間降った雪のせいか、スーパーアリッサムの調子が悪い、というか多分枯れている。
寒さは強いはずなのだけれど。

花が咲かなかったサルビアも枯れた。

映画館へ行きたいが全く余裕がない。
ライブなども行きたいがチケットを取る気力が湧かない。
うーん、なんか行くか。

本だけ地味に読んでいる。

雪の日【2026年02月08日】

土曜の朝はあまり雪は降らず、軒下に避難した植物たちを元に戻そうかとおもっていたけれど、面倒なのでそのままにしていたら今朝はしっかり積もっていた。

結局、軒下の鉢にも結構積もってしまったが大丈夫だろうか。
本当に寒さに弱いものは避けていたはず。

期日前投票など行く暇はないので、雪の中を歩いて投票所に行ったが、あれだけ積もっていると老人歩くのはしんどいだろう。

最近の制作はとにかく監督に確認を取りたがる(そう教育されているのだと思う)
監督に確認をいちいち確認とっていたら制作が停滞する。

昔は好き勝手にやりたいという人も多かったし、わりに各話のスタッフに自由が許されていたので、さすがにしくじると怒られそうな案件以外はなるべく監督を通さないという現場も多かった。

最近は作品の作りが全体に几帳面になってしまったのと、12、3本の短いシリーズが多くなってしまったため各話のスタッフが作風や全体像を把握しきれず監督に聞かないと怖くて進められないというのもわかる。
原作などクライアントの意向を監督を通して確認するようなことも多い。

それにしても、同じ様なことを何度も聞かれたりするのはいかがなものかとは思う。

監督なんて居なきゃいないで進んでいきそうなものだが、監督業は必ず設置される。

紅茶にしますか?コーヒーにしますか?と問われて、んーーじゃあコーヒーでとうのが監督の仕事だ。自分で飲むものを決めるのは別にどうということもないが、100人の客に出すコーヒーを決めるとなれば悩むこともある。

どの豆使いますか?ブラジル?コスタリカ?浅煎り?深煎り?とどんどん細分化していけばコーヒー出すにも幾つもの決断が必要になってくる。


フレーミングすること、切断することを担う役割というわけ。


昔の舞台芸術は劇作家が演出家を兼ねていた。

その役割が分業化されたのは19世紀後半らしい。意外と最近。

電気が出来たり、舞台表現が複雑化したのが理由ではないかと言われている。


決断を担う人間は色んなところに存在している。

どんな人間だろうと皆がそいつに決断を任せるとなったら、そいつは色んなことを決断していくわけだが、何にせよ決断する人間は必要とされているのは面白い。

人間の個人の決断だって、恋愛を他人(親とか)が決めていた時代は長かった。

いまだって他人の決断に身を委ねていることは山ほどある。


監督だって他人の決断に身を委ねたい時もある。
どっちでもいいよ、と私なんかはまあ放り投げてしまうこともしばしばだが、あとで文句言われたらやだななどど思われているかもしれない。
小さな決断も沢山あれば時間がかかるもので、監督が決めなくても良いのでは?というものまで判断しているといくら時間がっても足らない。

生きるか死ぬかがかかった決断をするとなったら、そりゃあ決断にも勇気が必要であろう。
アニメ作っている人が死ぬ、ということも滅多にない。
過労とかでスタッフが倒れないようには気をつけねばならないけど。

政治家は生き死にがかかった様な決断を迫られる場面もあるわけで、それはしんどいだろう。
しんどさに鈍感か、余程の使命感に駆られた人間だけが、その決断をになえるのかもしれない。

そんな決断をする人間を選ぶ決断をして投票箱に紙を滑り込ませる。

映画館へいきたい【2026年02月02日】

月末は1月二度目の行政がらみの会議。

会議といっても1時間半しかないので、各所報告とごく簡単な質疑応答のみで終わり。

久しぶりの知り合いに出会い、おーっと歓声を上げる。


寒さが戻って、外に出るのも面倒ではあるのだが面倒以前に仕事が終わらず家に篭りきり。
映画も一体いつから観ていないのやら。
近所の映画館にいくのすら憚られる。
春までは黙々と仕事をするしかないか。

ハサウェイは映画館で見ないと絶対見ない気がする。
暗いから。

SNSでは皆ハサウェイについて語っている。
しかも演出など技術的なことについて。
画がすごいのは、そうなのだろうけど。

とにかく映画館へは行きたい。

昔、渋谷にあったパンテオンで映画の上映前にラッパーのIce-Tが挨拶したいといって突然スクリーンの前に登場するという出来事に遭遇したのだが、いったい何の映画だったのかタイトルが思い出せずにいた。

ほんとにIce-Tだったのか?も怪しい記憶になりつつあったが、キアヌリーブス主演の「JM」を観に行った時に違いないと先ほど分かった。

彼が確かに出演しているし、パンテオンで見た記憶がある。

戸田奈津子が通訳で付き添っていた。

しかし、その時来ていた客はあの広いパンテオンに数人か、せいぜい十数人だった。

たぶんIce-Tのことを知っていた人もほとんどおらず、突然のアナウンスにも鈍い反応だったと記憶している。

詳しくは覚えていないが丁寧に感謝を述べ、さらっと去っていった。
なんだか申し訳ない様ないたたまれない気分になった。
客入りの悪さは映画の出来を考えれば致し方ないと思う。

マトリックス以外はパッとしなかったキアヌもあの頃の微妙な扱いに比べたら随分と人気が定着したし、おたく的な文化もキワモノではなくなった。

おたくは表に出られるようになった代わりに、オタク文化のアジールとしての機能は縮小している気はする。

日に当たりすぎるのも気をつけないと逃げ場を失う。

寒さは和らいで欲しい。
ラナンキュラス・ラックスの苗を買ったが寒さが落ち着くまでは植えるのを待つ。

雨が降らない【2026年01月24日】

年初からなんだかバタバタ。

2日にむぎを火葬して、行政絡みの会議やらもあり、レプリカは追い込み中。

動画協会の新年会では久しぶりの人に会えた。

年明けから約束していた人の作品のコンテに手をつける。
人の作品は気楽で楽しい。

なんかよくわからないけど仕事へのモチベーションは少し上がった。

植物もほったらかしだったが、枯れたセンニチコウとPWのユーフォルビアダイアモンドフロストを引っこ抜いてサントリーのウィンティーとローダンセマム・リルピンクを植えた。
黒っぽい花の咲くセージも。
しばらく雨が降っていないので2週間くらい?ジギタリスがぐったりしていて水をやる。
まさか夏越しした株なので春が楽しみ。

巨大になったアマリリスの球根の鉢が歪んでいるので春に咲く前に植え替えないとダメかもしれない。

いまいち育たない植物も他のものに入れ替えたい。

加藤一二三が亡くなった。

解散総選挙、だとか世界はもバタバタしてるがまあのんびりやろう。

アイキャッチ画像変えようと思って忘れていた。

ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【07】絶版ばかり…理論書

映画理論の歴史の流れがやっと分かってきた。

そもそもは1920年代、認知心理の学者らしいヒューゴー・ミュンスターバーグが書いた「映画劇――その心理学的研究」映画研究の嚆矢とされているようだ。

そのあと色んな研究がありつつ精神分析などと結びつきながら記号学的な方向へ収束していき、停滞。みたいなことらしい。

批評的な研究はずっと続いているけれど、実践と結び付けられそうな理論は80年代からそう変わっていないよう。

ミュスターバーグの論文が読みたいが、邦訳の載ったフィルムアート社の「映画理論集成」は絶版。
なんとか手に入れたい。昔はどこでも売っていたのだが…買っておけばよかった。

実践に使えそうなところとしては、認知科学的な理論と記号学的なものとアタリをつけていたものの、ごく初期が認知科学とは知らなかった。

ミュンスターバーグが、映画は観客の心に結像するのが最終形態、的なことを言っているらしく、納得。心的な現象として捉えていたらしい。その流れで精神分析と結びついていった様子。
ミュスターバーグは物語映画しか扱っていなかった、などの理由で批判されたりもしていたようだ。
そもそも心理学者なので映画論はあまり書いていない模様。

自分の趣向的にはアンドレ・バザン的な現実を映しとることが映画の最高みたいな方向に似ていると気づく。
エイゼンシュタインはモンタージュで現実を超えた何かが(ちょっと違うか?)立ち現れる的な世界観。
実質はエイゼンシュタインとバザンの中間あたりかな。

記号学的にはメッツの理論を押さえておけば、まあ大丈夫そう。
しかし絶版なので読めるか微妙。
水声社に在庫があるものもあったと思う。
間接的には浅沼圭司を押さえるしかないか。
浅沼圭司「映画のために」も絶版ぽいが…。水声社のオンラインショップに書影があるから一応まだ在庫を持っているのではないかという期待。

映画理論の流行ってい無さよ…。

「Film Art」という今も毎年更新されて出ているらしい映画の教科書は名古屋大学出版会から、しばらく前に出ていて、それはパラリとめくった。
初学者向けで映画制作全般にまつわる話題を網羅的に扱っている感じなので、良い本だが演出技術的なものは薄め。

まだちゃんと読んでいないが「VISUAL STORY」というボーンデジタル出版から出ている本は南カリフォルニア大学で教えている先生の構図とストーリーの関係について書いてあって比較的に面白そう。

東京大学出版会から出ている「映画論の冒険者たち」の著者がnoteで映画理論の重要本を70冊紹介していて参考になる。ミュンスターバーグにも触れられているのでこの本は読んだ方が良いかも。

正月に読もうと思った本が何も読めていない。
どこで読めるかな。

見送った【2025年12月31日】

むぎは土曜に病院に行って、1、2日持たないだろうと思っていたが驚異的な生命力で4日も生き延びた。

食事は病院に行く前の晩から何も食べておらず、ここ2日くらいは水もほとんど飲んでいなかった。
たまに注射器で入れてやった水を飲み下すくらいのものだった。

家に来た時は6歳くらいの推定年齢とのことだっが、先ほど保護主からの連絡で昔のカルテがでてきたらしい。
それによると2015年の生まれ、で10歳くらいだったようだ。
6歳にしてはしては少し鈍臭いと思っていたが納得した。

1本しかない歯はキュートだったが、多頭飼育していた老人の扱いの酷さが窺える。
家に来た当初は子猫の様におもちゃで遊んでいて、子供返りしていたようだ。
異様に人懐こく、老人が最後まで手放さなかったのも納得できる気がする。

むぎは老人の家を脱走し、飼い主を探し当てたところ多頭飼育崩壊の現場だったということらしい。

今日の昼間は比較的穏やかな顔をしていて、人の動きに顔を上げて見つめたりもしていた。なにせ人懐こい猫だったので、そこにいろ、ということだったのだろう。

逝ってしまう直前までは、なんだかこのままずっと居るのではないかと思ってしまうほどだった。

こちらの気持ちも少しは落ち着いて、いつものように接してみとってやれた様な気はする。
家の中は1年前にタイムスリップした様だが、むぎの爪痕はしっかり残っている。

前にも世話になった葬儀屋に大晦日の18時過ぎという時間帯に連絡してみたところ、1月2日から対応してくれるとのことで、助かった。

今はあまり実感も湧かないが、しばらくしたら喪失感がどっと押し寄せてきそうだ。


やろうと思っていた仕事はあまり進んでいないので、正月は年末に片付ける予定だったものを片付けねばならない。

ベテラン演出家が担当していたものを引き継いでいたものだが、基本的なことができていなくて唖然とする。
編集の時に気づけよという話なのだが、ベテランだし後で何とかするつもりなのかとタカを括っていた処もあり、非常に反省した。

とはいえベテランを叱責したりするのも嫌なものがあり、憂鬱。


むぎの病気を知る前日、voilの忘年会があり大高くんに参加せよと言われたので顔を出した。
久しぶりに若者とたくさん話して、というか社長大高くんに送り込まれて私のところへ来ていたのだが、皆なかなかのキラキラで前向きな若者たちで少し心が洗われた。

結構いい会社だな、voil。


年を越した感覚はない。

2026は仕事も心も空っぽ。

何かで満たせるだろうか。

イブはオールラッシュだった【2025年12月25日】

菊地成孔がSNSで書いてた文章が面白かった。

”音楽は、社会派であるとかないとか、理論理解があるとかないとかいう蒙昧な二元論のリージョンとは無関係に、そもそも全てが社会的な現象であり、理論的な現象であり、同時に、純粋な非社会性、超論理性を備えた存在ですので、好きな時に海から塩が採れるように、自由に社会問題や理論構築と結びつき、姿を変えることができる。”

全体は長文なのだが「自由に〜姿を変えることができる」について、はて、振り返って我が仕事のアニメはどうかと考えてみた。

そもそも映像は音楽ほど抽象化されていないので音楽と相対的に比べれば自由に姿を変えることは出来ないだろう。
もちろん抽象的な映像も存在するのだが、物語を扱う様なものは基本的に具象の世界だから。菊地の言っていることは、もっと幅広い意味を指しているのだろうけど。

アニメからも色んなことが汲み取ることができると思うが、今のところは掬い上げられているものは限定的に感じる。
作ってる方はもっぱら動物的なので、何が掬い出されているのか気に留めている気配はない。

掬い出されるか分からないそっと忍ばせるための旨味の様なものは、いつも考える。上手くやれていれば観客の嗅覚味覚を刺激してくれる。

アニメから何が掬い出されるのか、別に何も掬い出されなくても構わないが作り手としては受け手の中での変容をある程度見通せないと行き詰まるだろう。動物的な直感と世界の波に身を任せつつ。

アニメ業界のおじさんたちの体力は限界を迎えている様に見える。
自分を含めて。

幻想を形に落とし込むまでの体力がなくなってきている。

例外はもちろん沢山いると思うが。

若者がおじさんの尻拭いに忙殺されないように準備しないといけない。