とにかく後一歩というのは遠いもので、あとは自分のコンテを終わらせれば山を越えるという状態にあるけれど、思った様には進まない。
ちょこちょことしたチェックやら、少し時間がかかる作業やら仕事自体は常に積まれている状態なのと、自分の体力やら気力がこれまでの山を超えた後に通常状態に戻るまではずいぶん時間がかかる様になってしまったのでいたしかた無い。
私の作業が進まないことには、先に進めないので少しスケジュールは見直ししてもらいつつ、少しづつでも作っていく。
急に暑くなったのも体力を削いでいく。
スタジオに入った方が集中はできるのだが、移動時間をそこで消費する体力を考えると家での作業にしてしまいがち。
監督業は自分の作業が終わると人に託すしかなく、その時間が結構長いので今年の後半は待っている時間が多い。
カップラーメンの様に蓋をして3分経ったら出来上がりというわけには流石にいかないので、鍋の蓋をとって様子を見ながら時間までに茹で上がらなければ野菜を小さく切り直す様なことも必要になってくる。
「写真のボーダーランド」が面白かった。
博論を大幅修正して作ったものらしい。
心霊写真の類は最近は流行らないが、AIの作る画像は心霊写真の類だ。
見えないものを可視化したいという欲望は人眼のマインドの奥深くにセットされている。
というより、奥深くのものを見つけるために写真も発明当時から利用されてきたということか。
映像を盛るということも、ごく初期からあるし、写るという段階で照明や化粧や美的な構図やら様々な形で盛られている。盛らないと写らないという物でもあったりする。
今は、人間の目ではわからない様なディティールが記録され拡大され再生される。これはありのままというものでもなかろう。
フレームもまた映像の切り離し難い限界だ。
もちろん限界を作らないと人げには認知不可能なわけで、VRは映像そのもののフレームがなくなった代わりに人間の認知のフレームが採用されているだけだ。
映像の虚構性が顕在化するとアニメの様な虚構の映像の真実性は相対的に増すのかもしれない。
Vtuberの隆盛も、その延長線上にあるのだろう。
幽霊の復権は死んだ人間を喋らせてしまう AIの映像の中ですでに始まっている。
人間の中に常に存在する見えざるもの、について考える。