役者向けのワークショップを本にしたもの。
ステラ・アドラーはスタニスラフスキーに指導を受けたというので読んでみたが、メソッド演技に凄く影響を受けたというわけではないらしく、割と普通な考え方で指導していたと思われる。メソッド演技に影響は受けているのだろうが直接的には触れられていなかった。
・脚本の読み方
・見えないものも想像する。
脚本に書かれていないディティール(ものがどこにあるとか、ものの重さ固さなど)をしっかり想像することで肉体が自然に動く。
・役の(脚本に書かれていない)歴史を掘り下げて想像する
とか、脚本に書かれていないことをしっかり想像すれば肉体は動く様になる。というのがざっくり全体を貫かれている考え方。
脚本に現れないディティールをどう作るかは、やはり演出家にとってももちろん大事なので参考になった。
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終わらん【2026年02月15日】
仕事が終わらん。
久しぶりに原画チェックをしている。
顔が崩れている…からちょこちょこと直しの指示を入れたりは仕方ないと思えるのだが、第2原画を請け負う人たちは多分コンテも読まず、レイアウトに入っている演出指示も読まずに作業しているモンだから指示(簡単な事も)対応が抜けていたり、誰が誰を見ているかなどを理解せずに描いている。
第2原画どころか、作画監督も演出指示読んでないんじゃないかと思う。
連続したカットでも違う人に発注したりしているし、引き絵のカットは描き手が見つからないという理由でアップだけ先に上がってくるので、繋がりを確認できない。
レイアウトで合わせてあっても、つながりで作業者が違うと作業者自身が他の素材を見られないので前後の繋がりの確認ができない。
恐ろしく効率が悪い。
これは今の仕事に限ったことではなく、数年前から中規模作品は全てこんな感じ。
賽の河原で石を積んでいる気分。
少しづつ暖かくなってきた。
ラナンキュラス・ラックスの苗を買ってあったので大きめの鉢に植えた。
去年コガネムシの幼虫に根を食われたプレクトランサスが寒さで完全にやられて枯れたので代わりに植えた。
ラックスは強いので楽しみ。
花の期間はそう長くはないのかもしれないが。
金魚草はよく咲いている。
ストックとプリムラも。ネメシアが花芽がついているが何故か咲かず。
ビオラ。パンジーはこれから大きくなると思うが鉢が小さいかも…。
この間降った雪のせいか、スーパーアリッサムの調子が悪い、というか多分枯れている。
寒さは強いはずなのだけれど。
花が咲かなかったサルビアも枯れた。
映画館へ行きたいが全く余裕がない。
ライブなども行きたいがチケットを取る気力が湧かない。
うーん、なんか行くか。
本だけ地味に読んでいる。
雪の日【2026年02月08日】
土曜の朝はあまり雪は降らず、軒下に避難した植物たちを元に戻そうかとおもっていたけれど、面倒なのでそのままにしていたら今朝はしっかり積もっていた。
結局、軒下の鉢にも結構積もってしまったが大丈夫だろうか。
本当に寒さに弱いものは避けていたはず。
期日前投票など行く暇はないので、雪の中を歩いて投票所に行ったが、あれだけ積もっていると老人歩くのはしんどいだろう。
最近の制作はとにかく監督に確認を取りたがる(そう教育されているのだと思う)
監督に確認をいちいち確認とっていたら制作が停滞する。
昔は好き勝手にやりたいという人も多かったし、わりに各話のスタッフに自由が許されていたので、さすがにしくじると怒られそうな案件以外はなるべく監督を通さないという現場も多かった。
最近は作品の作りが全体に几帳面になってしまったのと、12、3本の短いシリーズが多くなってしまったため各話のスタッフが作風や全体像を把握しきれず監督に聞かないと怖くて進められないというのもわかる。
原作などクライアントの意向を監督を通して確認するようなことも多い。
それにしても、同じ様なことを何度も聞かれたりするのはいかがなものかとは思う。
監督なんて居なきゃいないで進んでいきそうなものだが、監督業は必ず設置される。
紅茶にしますか?コーヒーにしますか?と問われて、んーーじゃあコーヒーでとうのが監督の仕事だ。自分で飲むものを決めるのは別にどうということもないが、100人の客に出すコーヒーを決めるとなれば悩むこともある。
どの豆使いますか?ブラジル?コスタリカ?浅煎り?深煎り?とどんどん細分化していけばコーヒー出すにも幾つもの決断が必要になってくる。
フレーミングすること、切断することを担う役割というわけ。
昔の舞台芸術は劇作家が演出家を兼ねていた。
その役割が分業化されたのは19世紀後半らしい。意外と最近。
電気が出来たり、舞台表現が複雑化したのが理由ではないかと言われている。
決断を担う人間は色んなところに存在している。
どんな人間だろうと皆がそいつに決断を任せるとなったら、そいつは色んなことを決断していくわけだが、何にせよ決断する人間は必要とされているのは面白い。
人間の個人の決断だって、恋愛を他人(親とか)が決めていた時代は長かった。
いまだって他人の決断に身を委ねていることは山ほどある。
監督だって他人の決断に身を委ねたい時もある。
どっちでもいいよ、と私なんかはまあ放り投げてしまうこともしばしばだが、あとで文句言われたらやだななどど思われているかもしれない。
小さな決断も沢山あれば時間がかかるもので、監督が決めなくても良いのでは?というものまで判断しているといくら時間がっても足らない。
生きるか死ぬかがかかった決断をするとなったら、そりゃあ決断にも勇気が必要であろう。
アニメ作っている人が死ぬ、ということも滅多にない。
過労とかでスタッフが倒れないようには気をつけねばならないけど。
政治家は生き死にがかかった様な決断を迫られる場面もあるわけで、それはしんどいだろう。
しんどさに鈍感か、余程の使命感に駆られた人間だけが、その決断をになえるのかもしれない。
そんな決断をする人間を選ぶ決断をして投票箱に紙を滑り込ませる。
ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【07】絶版ばかり…理論書
映画理論の歴史の流れがやっと分かってきた。
そもそもは1920年代、認知心理の学者らしいヒューゴー・ミュンスターバーグが書いた「映画劇――その心理学的研究」映画研究の嚆矢とされているようだ。
そのあと色んな研究がありつつ精神分析などと結びつきながら記号学的な方向へ収束していき、停滞。みたいなことらしい。
批評的な研究はずっと続いているけれど、実践と結び付けられそうな理論は80年代からそう変わっていないよう。
ミュスターバーグの論文が読みたいが、邦訳の載ったフィルムアート社の「映画理論集成」は絶版。
なんとか手に入れたい。昔はどこでも売っていたのだが…買っておけばよかった。
実践に使えそうなところとしては、認知科学的な理論と記号学的なものとアタリをつけていたものの、ごく初期が認知科学とは知らなかった。
ミュンスターバーグが、映画は観客の心に結像するのが最終形態、的なことを言っているらしく、納得。心的な現象として捉えていたらしい。その流れで精神分析と結びついていった様子。
ミュスターバーグは物語映画しか扱っていなかった、などの理由で批判されたりもしていたようだ。
そもそも心理学者なので映画論はあまり書いていない模様。
自分の趣向的にはアンドレ・バザン的な現実を映しとることが映画の最高みたいな方向に似ていると気づく。
エイゼンシュタインはモンタージュで現実を超えた何かが(ちょっと違うか?)立ち現れる的な世界観。
実質はエイゼンシュタインとバザンの中間あたりかな。
記号学的にはメッツの理論を押さえておけば、まあ大丈夫そう。
しかし絶版なので読めるか微妙。
水声社に在庫があるものもあったと思う。
間接的には浅沼圭司を押さえるしかないか。
浅沼圭司「映画のために」も絶版ぽいが…。水声社のオンラインショップに書影があるから一応まだ在庫を持っているのではないかという期待。
映画理論の流行ってい無さよ…。
「Film Art」という今も毎年更新されて出ているらしい映画の教科書は名古屋大学出版会から、しばらく前に出ていて、それはパラリとめくった。
初学者向けで映画制作全般にまつわる話題を網羅的に扱っている感じなので、良い本だが演出技術的なものは薄め。
まだちゃんと読んでいないが「VISUAL STORY」というボーンデジタル出版から出ている本は南カリフォルニア大学で教えている先生の構図とストーリーの関係について書いてあって比較的に面白そう。
東京大学出版会から出ている「映画論の冒険者たち」の著者がnoteで映画理論の重要本を70冊紹介していて参考になる。ミュンスターバーグにも触れられているのでこの本は読んだ方が良いかも。
正月に読もうと思った本が何も読めていない。
どこで読めるかな。
見送った【2025年12月31日】
むぎは土曜に病院に行って、1、2日持たないだろうと思っていたが驚異的な生命力で4日も生き延びた。
食事は病院に行く前の晩から何も食べておらず、ここ2日くらいは水もほとんど飲んでいなかった。
たまに注射器で入れてやった水を飲み下すくらいのものだった。
家に来た時は6歳くらいの推定年齢とのことだっが、先ほど保護主からの連絡で昔のカルテがでてきたらしい。
それによると2015年の生まれ、で10歳くらいだったようだ。
6歳にしてはしては少し鈍臭いと思っていたが納得した。
1本しかない歯はキュートだったが、多頭飼育していた老人の扱いの酷さが窺える。
家に来た当初は子猫の様におもちゃで遊んでいて、子供返りしていたようだ。
異様に人懐こく、老人が最後まで手放さなかったのも納得できる気がする。
むぎは老人の家を脱走し、飼い主を探し当てたところ多頭飼育崩壊の現場だったということらしい。
今日の昼間は比較的穏やかな顔をしていて、人の動きに顔を上げて見つめたりもしていた。なにせ人懐こい猫だったので、そこにいろ、ということだったのだろう。
逝ってしまう直前までは、なんだかこのままずっと居るのではないかと思ってしまうほどだった。
こちらの気持ちも少しは落ち着いて、いつものように接してみとってやれた様な気はする。
家の中は1年前にタイムスリップした様だが、むぎの爪痕はしっかり残っている。
前にも世話になった葬儀屋に大晦日の18時過ぎという時間帯に連絡してみたところ、1月2日から対応してくれるとのことで、助かった。
今はあまり実感も湧かないが、しばらくしたら喪失感がどっと押し寄せてきそうだ。
やろうと思っていた仕事はあまり進んでいないので、正月は年末に片付ける予定だったものを片付けねばならない。
ベテラン演出家が担当していたものを引き継いでいたものだが、基本的なことができていなくて唖然とする。
編集の時に気づけよという話なのだが、ベテランだし後で何とかするつもりなのかとタカを括っていた処もあり、非常に反省した。
とはいえベテランを叱責したりするのも嫌なものがあり、憂鬱。
むぎの病気を知る前日、voilの忘年会があり大高くんに参加せよと言われたので顔を出した。
久しぶりに若者とたくさん話して、というか社長大高くんに送り込まれて私のところへ来ていたのだが、皆なかなかのキラキラで前向きな若者たちで少し心が洗われた。
結構いい会社だな、voil。
年を越した感覚はない。
2026は仕事も心も空っぽ。
何かで満たせるだろうか。
いつもの授業【2025年12月22日】
週末は、毎年恒例になったDA-academy(声優向けのワークショップ)の授業。
いつも時間オーバーで駆け足になるので、抽象的な部分を少し省略して臨んだ。
結果的には、もう少し見直した方が良いか…と喋りながら考えた。
リアリティの話を演技に具体的に紐づけたのは、まとまって分かりやすくなっのだが、物語・フィクションの必要性や無意識の話をバサっと落としたので、若干膨らみを欠いてしまったかもしれない。
1時間で演出について話す、というのがそもそも難しいのだが重複する様な部分もあるので整理すればもう少し内容は詰め込めるかもしれない。
とくに無意識の話はあった方が良いかもしれない。
演技には凄く関係するから。
おまけのオーディションについての話が、一番反応がヴィヴィットだった。
それはそうだろうという気もするが、演出家がオーディションにおいて絶大な権限を持っている時代でも無いので、どの程度参考になったのかは分からない。
長い間そこそこ稼げるようになるといいのだが。
日曜は久しぶりに植物を買いに出かける。
ケイトウの寄せ植えがダメになったので、かわりを見繕う。
ストック、プリムラジュリアン、ネメシア、初雪カズラ、ワイヤープランツ、で作るつもり。
パンジー・ビオラも綺麗なものがたくさんあったのでつい幾つか買う。
植える鉢がないのだが。
あとはアネモネ極。
他にもアネモネは欲しかったが持って帰れないので断念。
ローダンセマム・サファリアイズがあったが、これも断念。
ほかにも幾つか欲しいものがあってキリがない。
とりあえず鉢を買わないと。
ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【06】番外:小川哲「言語化するための小説思考」
映像技法ではないけれど、とても面白かったのと教える時に役立ちそうなのでメモ。
著者は技術書ハウツーの類の本ではないと言っているが、小説創作の過程がわかりやすく言語化されていて面白い。
1)小説刻の法律について
小説家も読者を意識する、した方が良いと言う話。
小説法に違反すると「駄作だ」「面白くない」とか言われるらしい。
SF、エンタメ、純文学、推理、などジャンルによって読者の読み方が違う。
誰に向けて書いているのか意識しないと批判されたり、伝わらない。
そもそも、自分と自分以外の小説の読み方、楽しみ方が違う。
自分が面白いと、読者が面白いのすり合わせが必要。
2)小説の勝利条件
将棋のAIによる形成判断が、小説にあったらどうか?と言う話。
小説には明確勝利条件が存在しないが、読者に面白いと思わせることと仮定して話が進む。
桃太郎を書くとしたら何処から書くか、将棋の手の選択のようにいくつかの選択肢の中から小説家がどの様な思考で選択肢を絞っていくかについて。
3)知らない世界について堂々と語る方法
世界の構造の抽象化と個別化
自分の知っている、あるいは調べた(聞いた)世界を抽象化して別の世界に置き換えて個別化すると言う話。
4)文体とは何か?
著者が文体においてもっとも重要だと考えている要素「情報の順番」の話。
「読みやすさ」とは「登場人物と読者の情報量の差を最小化する」ことではないか?
5)君はどこから来たのか、君は何者か、君はどこへ行くのか
新人賞の選考は「突然知らない人から話しかけられる」体験に近い、と言う話。
今されている話は、笑えるのか、怒っているのか…作家との文脈がないと分からない。
多くの人は行き先のわからない電車に乗っていると不安に感じるようだ。
新人作家は、作品がどこへ向かって何を与えるか(可能な限り)作品の序盤で明らかにした方が良い。
6)小説はコミュニケーションである
知人・友人との話は多くの事前情報を共有している。
読者とのコミュニケーションを円滑にするためには、適切の情報を与えなければいけない。
7)伏線は存在しない
読者はいつも展開を予想しながら読み進め、書き手は読者の予想を想像しながら展開を決めていく。
小説は伏線そのもの。
「展開を暗示すること」と「暗示されていない展開に対する違和感を減らすこと」の二つによって成立している。
8)なぜ僕の友人は小説が書けないのか
つまらないアイデアの2つのパターン。
「専門性が高すぎる」「陳腐すぎる」
「主張」や「設定」から発想しようとするのではなく「書いてみたいこと」や「考えてみたいこと」から考えてみた方が良いのでは?と言う話
9)アイデアの見つけ方
商業的に成功する人は「もともと読者(他者)の物差しを内面化している人」か「なるべく読者の物差しに合う様に、自分の物差しを調整した人」
読者の分析は非常に難しい、分析の質を上げるには「作品を発表すること」が一番近道なのではないか。
面白い小説に必要なのは「新しい情報」か「新しい視点」
アイデアは発想力やオリジナリティではなく見つけるものではないか?
10)小説ゾンビになってわかったこと
小説を探す上で最初に捨てないといけないもの=自分の価値観
価値観の相違の中に、まだみぬ小説がある…かもしれない
どれも極力具体的に語られていて、わかりやすい。
特に文体と順番の話は映像にとっても重要。
ダグラム【2025年10月27日】
しばらく前、ダグラムを見た。
たぶん新潟では放映しておらず、いや放映していたかもしれないが見ていないと思う。
子供の頃見ていたアニメで1話から最終話まで全部きちんと見た、作品はあまりない。
うちにはビデオもなかったし。
大学に入って東京に出てレンタルやら友達に貸してもらったりで一通り見たものはある。
しかし、仕事を始めてからあらためて昔の作品を見返すという気力もなく(昔は長い作品が多い)好きだったと思っている作品も穴あきでしか見ていないものが結構あるはずだが、見ずに死んでいくものが多い気がする。
ダグラムは穴あきも何も全く見ていなかったのと、当時の戦争ロボットものとしてはガンダムに続く作品の様なイメージもあり、どんなものかと興味があったので仕事しつつ流し見したのだが非常に良くできていて驚く。
絵的にはだいぶ大味なのだが、脚本がとにかくよく出来ている。
ガンダムと同じ様な独立戦争の話だが、主人公の父親が地球の大物政治家なので周辺からでなく政治の方からも描いていて、それが大変面白い。
主人公は10代で地球の軍隊でロボットの操縦を覚えていて、敵方のゲリラに参入して最新ロボットを操るという辺りは子供にむけた作り。
しかし白眉は大人の描き方で、とにかくいろんな立場の人間を丁寧に描いた群像劇になっている。これ子供向けか?とも思うがロボットがカッコよく動いていれば男の子は見ただろうし、全体で73話もあるので玩具が売れていたに違いない。
玩具が売れれば何でもできる、というのは時代の豊かさであったと思う。
権力の駆け引きや人情、暴力と子供には少々難しい話の様に思えるがどの程度伝わっていたのだろうか。
父と息子、が子供的には身近でわかる唯一のテーマだったかもしれない。
なにせ面白かったのはラコックという主人公の父親ドナン・カシムの補佐官で、この人が数々の謀略を考え自体をかき混ぜ、ついにドナンを殺そうとまでするという大変な人物で途中からは、この人中心にドラマが展開していた。
ラストもあまり煮え切らず、独立がハッキリ叶った訳でなく主人公たちが生き延びることが希望なんだというところで終わるのが全く娯楽的ではなく、よくこんなラストが通ったなと感心する。73話もあったからこそ描き切れたということもあるだろう。
セリフもきちんと戦記物を作ろうという気概が感じられて子供向けにわざわざ手抜いている感じはない。
作り手はそれなりに若かったと思うのだが、結構勉強していないと出てこない様なテーマを扱っていて大人のシナリオという風情で驚く。
豊かな時代だったんだなと、少しため息がでた。
型【2025年10月19日】
とにかく細かなトラブルが続出で、暇ができない。
なんでやねん、と突っ込みたくなる。
アニメは自動車の様に同じ型を使ったりあなじ作業の連続で作られる様なことはない、というのはアニメ研究で聞かれる話であるけれど、これは半分当たっていて半分外れだと思う。
歩きや走り、アクションの様なものでも実は型があってその変形で作られている部分は多々ある。
歩きは最近は、どんなものでも3コマ中5だし、走りは3コマ中2。
中は中割りの略。
2枚原画を描いて5枚中割りを入れて1歩18コマの歩きが定番のスタイル。
人間の歩きは1歩1歩微妙に歩幅や体の動きが違うものだが(訓練されて、ほとんど変わらない人もいるだろう)そんな微妙をかき分けていたら完成しない。
ロトスコープは実写を下敷きにする分、動きについて考えることを省略するというスタイル。
自動車なんかに比べたら全く劣るが、生産性を上げる工夫は無いわけではない。
型だけで作っていると何か見覚えがある様なものしか出来ないので、少しの隠し味をどうつけるかが腕の見せどころ。
隠し味にしろ大きな型にしろ伝統は伝わっているものもあれば失われている様なものもあって、時代の趨勢で失われたものは仕方ないとしても良きものは記録・保存されていくと良いのだが記録する術が今のところない。
アーカイブとか一応計画はあるけれど、政治が混迷する中どうなる事やら。
ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【05】イマジナリーの説明用認知科学理論・ナラトロジー
イマジナリーラインの根拠になるような認知科学の理論は無いのかと論文探したり本を漁っている。
・変化盲
・文脈効果
・対象の永続性(発達心理の中の言葉)
この辺の研究で何と無く説明はできそう。
直接的に映像に絡めた研究は英語でもあまり無さそう。
幾つかは、映像に絡めた論文もあるのでヒントにしたい。
変化盲は、これでほとんどイマジナリーラインの効果については理解できそうだが、これだけ詳しく説明した本や論文は見つからない。基本的なことすぎるのか…?
英語論文でロンドン大学?で認知科学と映像理解を絡めた研究をしている人がいるみたいだが、他はほとんど見つけられず。
流行りでない、ということか。
金子書房の「知覚・認知心理学」を購入。
比較的最近出た本で知りたいこと近辺について書いてある。
東京大学出版会から去年出た認知科学のシリーズは一個レイヤーが上というか、もう少し大まかな話が多くて使え無さそう。面白そうだし最近の知見がまとめられていそうなので読んでは見たいが。
映画理論講義修正を読み始めた。
ざっくりは使えそう。
古臭さはある。
講談社学術文庫から出ている橋本陽介「物語論 基礎と応用」をぱらっと読んだ。
前半は物語論(ナラとロジー)のざっくりした紹介で、これは使えそう。
後半は具体例で分析をしているが急にぼんやりとした感じで発見はない。
意外と最近出た本らしくシン・ゴジラや他のアニメも取り上げられていた。
やはりこの手の構造主義から派生した研究は60〜80年代あたりで概ね止まっている印象。だが、その後もポツポツと研究はある模様。
基本的には廃れ気味というか、流行ってない。金にならないというかとかと思われる。
嚆矢とされるジュネットの「物語のディスクール」は水声社で今でも買える様なので読んでみようかと思う。元は72年だから古い研究だなあ。
物語をめぐる様々な研究はあるようなのだけれど、記号学とか認知科学とかを絡めたものは少ない。
散発的なものを集めるには流石に時間と気力が足りない…。
物語論は基本、言葉についてなので映像に応用する場合は少し工夫が必要。
でも初心者に教えるためにはとても助けになりそう。
蓮見も多分このへんの詩学・物語論を軸にしていると思われるけど、昔読んで苦手だった印象が拭いきれず読む気が起こらない。
あとは浅沼圭司くらいか?
年末暇になったら、調べたい。
