前回が9日の投稿だから2週間ちょっとぶり。
もう何をしたのか忘れそう。
ほぼ仕事しかしていないから忘れることもないか。
先週末はロロの新作「ウルトラソウルメイト」を観劇。
友達の死は、なんとも不思議な感触で残っていて、しばらく会っていなかった友達などは特に実感も乏しく、しかし便りがこなくなったりすることでふんわり実感していく、のはみんなそんなものなのかもしれない。
近かった人は少し疼くような傷として残っている。
亡くした友達は今となっては自分よりみんな若く、日に日に歳の差は開いていく。
どうすれば生きていられたのか、考えても詮なきことであるし、生きてりゃ幸せというわけでも無かったかもしれない。
が、彼らが見られなかったものを自分が見ていたり出来たりしているのは幸福だと思っている。あの世への土産話としても積もろう。
帰りに内古閑さんと少し呑んだ。
夜はフクタケさんのお誕生日会へ。
80年代のアニメソングをたくさん浴びる。
祝いに来ているのか、こちらが祝われているのか分からない。
80年代には産まれてもいない若い人も楽しんでいて、それは楽しい。
久しぶりの酒で、いい気分になった。
Bar OPKは江口寿史も来るとか。
次の日は引っ張りまくっていた他人の作品の絵コンテをアップした。
さすがに自分でもどうかと思うほど、引っ張ったが、どうも体が重くて何をやるにも時間がかかる。
仕事はまだ山積み。
デジタルでの効率化を真剣に考えないと無駄に時間がかかっている気がする。
ひとりで、どうか出来るものでもないのだが。
とくにタイムシートの処理を効率化できれば大幅に時間短縮できる気はしている。
どこかのアニメーター?がタイムシートの作成ソフトを作っていて良さそうな感じだが、まだ触る時間がない。
調べるとOpen toonsもクリスタフォーマットのタイムシートソフトを作っていた。
今はクリスタで画像データとして扱っていて原画番号などは手で書いているんだからデジタルといってもデータの送受信、管理の部分だけで作成は超アナログ。
口パクの合わせは最近細かい合わせを求められるが、シートの書き直しが非常に面倒で何とか楽にしたい。
手持ちの仕事をさっさと終わらせて、来月でも少し触れると良いのだが。
タグ: 演出
黙々と【2026年05月09日】
ゴールデンウィーク終わり。
この時期に休んで遊びに行くわけでも無いのだが、普通に街の中は人が多いので日常が戻ってくるのはありがたい。
晴れた日は、もう夏の気配がするような気温。
植物の水切れも早い。
今週はオケカツとオンライン編集で出かけたくらいで、ほとんど篭って仕事。
今週カンパけた話の演出はアニメーター上がりで、まだ20代の若人。
今回が初めての20分尺の演出とのこと。
コンテは私。
とはいえアニメーターとしての腕前はなかなかなもので、彼のおかげで随分作画は持ち上がっていると思う。
かなり身を削って仕事をしていたので、やや心配だったが、出来は初演出としては十分だろう。
ベテラン演出の腕の衰えを感じる中、やはり若さは偉大だなという気にさせられた。
彼は作画オタクで、どこからか手にれた原画や線撮りを見せてくれるのだが、それに反応していると結構作オタなんですね、SNSなんかでそういう話をしていないから意外、というようなことを言われた。
確かに。
作オタというほどアニメーターを知っているわけでは無いけれども、世代的にアニメ雑誌などでアニメーターがアイドル的に扱われていた時代を過ごしてきたし、絵は好きなので、仕事上必要でもあり、ある程度の情報は知っている。
しかし、今の自分の仕事の嗜好は緻密な作画に興味は無くなっていている。
だからと言って、酷い作画がでも気にならないというわけでも無いのだが…状況は芳しく無い。
部屋に住み着いている三毛猫が、最近やたらと膝の上にのりたがるというか、側にいたがる。
以前からご飯を食べるときに私を呼んで、床に座り込んで横にいないと安心して食べてくれなかったのだが、特にご飯が食べたいときでなくとも呼ばれることが多くなった。
床に座ると膝の上にのってそのまま寝てしまう。
もう老猫なので、あまり無碍にするのも気の毒でしばらく動けない。
仕方ないので本を読んだり、スマホを眺めて時間をつぶす。
私も老いると人恋しくなるのだろうか。
もともと野良の子猫で家に引き入れてからでも半野良みたいに長いこと人に懐かなかったのだが、ここ数年で私には随分慣れてくれて病院にも連れて行けるようになった。慣れてからは寧ろ、人がいないと寂しいらしく激しく呼ばれる。
仕事が捗らず、うるさく感じることもあるが、快適な老後にはしてやりたいものだ。
アリが家の中に侵入してきていた。
どうも壁の隙間から出入りしているらしい。
仕方ないので、アリを退治する薬剤を庭に仕込んでいると、裏の家から「おかあさん!」「うるさい」「おかあさん!」「うるさい」「(泣く)」という母娘の会話が聞こえてきた。
文脈もわからないし聞いている感じ虐待ではないのだが、子供が気の毒には思えた。
昭和であれば日常風景なような気もする会話だが、京都で子供が殺されたりするご時世、景気が悪くなったり世の中余裕がなくなると弱いものに、ストレス発散の圧力が加わるのは世の常。
自分の老猫への扱いを思い出しつつ、これからまた子供が災難を被る時代が来るかと思うと、少し憂鬱になった。
多少なりとも世の憂さを晴らす道具としての娯楽は求められているかもしれない。
アニメイションネイチャー、映画理論集成【2026年04月19日】
山村浩二「アニメーションネイチャー」を読み終わった。
作品はそれほど見ていない。頭山、年をとった鰐、は見たはず。
誰もが認める巨匠でありつつ、教育者でもある氏の芸大での講義を元にしたアニメーション論で作品の引用も多々あり、インディペンデント系のアニメーションのガイドブックとして読んでも面白い。
新人教育の参考になるかと思って読み始めたのだが、多様なアニメーションのスタイルを扱っているので、どう昇華するかはむずかしいかも。
自分のやっている仕事がアニメーションの中でも非常に狭い領域だというのは良くわかる。
しかし、一時期の商業アニメとインディペンデント・アート系のアニメーションの溝は最近少し狭まった様にも思う。
OP/EDの様な部分にインディペンデントな作家が起用されたり、本編内にも違う様式のアニメを入れ込む例が増えてきている気がする。
80年代あたりまでは意外と曖昧で両業界の親交もあった様なイメージだったが、90年代以降は、ほぼくっきりと別れていたのではなかろうか。
モルカーの見里さんの活躍などもあるし、再び入り混じり始めたのはとても面白いと思う。
TAAFの長編作品の審査員をした時、海外の人形アニメ作家の人が人形アニメ作品を強く推していたのが印象深かった。
良い作品だったのだが、他の映画祭でも賞を色々とっていて、これ以上推す必要があるのかというような議論をしたのだが、人形アニメはやはり報われていない、という意識をその作家は持っていた様な気がする。
もっと境界なく仕事の交流もあった方が、金銭的にもインディペンデントな作家に資するんじゃなかろうか。
その作家は、これから5年くらいかけて制作する短編アニメーションのシリーズを作るという様なことを言っていて気が遠くなった。
制作スケジュールの違いも商業アニメとの交流の敷居になっているととは思う。
本に戻るとメタモルフォーゼ、パースペクティブなど章立てで抽出しているテーマが面白い。結構たくさんの要素を抜き出して考えられていて、なるほどこんな風にアニメーションの要素が分解できるのかという気づきがある。
ナラティブの章は、さすがに自分でも考えたことがある様な内容で我々ほどストーリーに重きを置いていないのが印象的。
ともあれ、商業アニメのクリエイターもインディペンドなアニメはもっと見た方が刺激になると思う。
ネットで無料で見られるものも少なくないのが、今の時代の良いところ。
マクラレンの作品なんかNFBの公式YouTubeでほとんど見られるんじゃないか?
いい時代だ。
探していた映画理論集成の古本を手に入れた。
絶版で殆どどこでもプレミアがついているのだが、Amazonで超お安い値段で出ていた。
図書館の除籍本だから安かったのだろうか?
貸出の履歴を見ると3回くらいしか借りられていない様で、最後に貸し出されたのは99年4月26日。
約27年前だと思うと感慨深い。
四半世紀ぶりくらいに読まれるというわけだ。
読みたかったミュンスターバーグの訳が冒頭にあって、流石に全訳ではなく2章ほどの抜き出しだった。
しかし、方向性が知れたので満足。
ストレートに認知科学的な分析で、映画がどう観客に受容されるのか、空間の知覚などについて論じられていた。
今の認知科学の知見でどこまで正しいのかわからないが、こういうのが読みたかったという内容で参考になる。
認知科学で映画をまとまった形で分析した日本語で読める本は皆無なので、断片を集めて少しまとめられるといいのだが。
まだパラパラめくっただけなので落ち着いたら読みたい。
エアコンが壊れていたことが判明したので買い替え、今日工事も終わった。
猫たちは4時間くらいロフトに退避、かなり大きな音もするので年寄り猫には酷だった。
夏は快適に過ごせると思うので許していただきたい。
ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【08】ステラ・アドラー「魂の演技レッスン」
役者向けのワークショップを本にしたもの。
ステラ・アドラーはスタニスラフスキーに指導を受けたというので読んでみたが、メソッド演技に凄く影響を受けたというわけではないらしく、割と普通な考え方で指導していたと思われる。メソッド演技に影響は受けているのだろうが直接的には触れられていなかった。
・脚本の読み方
・見えないものも想像する。
脚本に書かれていないディティール(ものがどこにあるとか、ものの重さ固さなど)をしっかり想像することで肉体が自然に動く。
・役の(脚本に書かれていない)歴史を掘り下げて想像する
とか、脚本に書かれていないことをしっかり想像すれば肉体は動く様になる。というのがざっくり全体を貫かれている考え方。
脚本に現れないディティールをどう作るかは、やはり演出家にとってももちろん大事なので参考になった。
終わらん【2026年02月15日】
仕事が終わらん。
久しぶりに原画チェックをしている。
顔が崩れている…からちょこちょこと直しの指示を入れたりは仕方ないと思えるのだが、第2原画を請け負う人たちは多分コンテも読まず、レイアウトに入っている演出指示も読まずに作業しているモンだから指示(簡単な事も)対応が抜けていたり、誰が誰を見ているかなどを理解せずに描いている。
第2原画どころか、作画監督も演出指示読んでないんじゃないかと思う。
連続したカットでも違う人に発注したりしているし、引き絵のカットは描き手が見つからないという理由でアップだけ先に上がってくるので、繋がりを確認できない。
レイアウトで合わせてあっても、つながりで作業者が違うと作業者自身が他の素材を見られないので前後の繋がりの確認ができない。
恐ろしく効率が悪い。
これは今の仕事に限ったことではなく、数年前から中規模作品は全てこんな感じ。
賽の河原で石を積んでいる気分。
少しづつ暖かくなってきた。
ラナンキュラス・ラックスの苗を買ってあったので大きめの鉢に植えた。
去年コガネムシの幼虫に根を食われたプレクトランサスが寒さで完全にやられて枯れたので代わりに植えた。
ラックスは強いので楽しみ。
花の期間はそう長くはないのかもしれないが。
金魚草はよく咲いている。
ストックとプリムラも。ネメシアが花芽がついているが何故か咲かず。
ビオラ。パンジーはこれから大きくなると思うが鉢が小さいかも…。
この間降った雪のせいか、スーパーアリッサムの調子が悪い、というか多分枯れている。
寒さは強いはずなのだけれど。
花が咲かなかったサルビアも枯れた。
映画館へ行きたいが全く余裕がない。
ライブなども行きたいがチケットを取る気力が湧かない。
うーん、なんか行くか。
本だけ地味に読んでいる。
雪の日【2026年02月08日】
土曜の朝はあまり雪は降らず、軒下に避難した植物たちを元に戻そうかとおもっていたけれど、面倒なのでそのままにしていたら今朝はしっかり積もっていた。
結局、軒下の鉢にも結構積もってしまったが大丈夫だろうか。
本当に寒さに弱いものは避けていたはず。
期日前投票など行く暇はないので、雪の中を歩いて投票所に行ったが、あれだけ積もっていると老人歩くのはしんどいだろう。
最近の制作はとにかく監督に確認を取りたがる(そう教育されているのだと思う)
監督に確認をいちいち確認とっていたら制作が停滞する。
昔は好き勝手にやりたいという人も多かったし、わりに各話のスタッフに自由が許されていたので、さすがにしくじると怒られそうな案件以外はなるべく監督を通さないという現場も多かった。
最近は作品の作りが全体に几帳面になってしまったのと、12、3本の短いシリーズが多くなってしまったため各話のスタッフが作風や全体像を把握しきれず監督に聞かないと怖くて進められないというのもわかる。
原作などクライアントの意向を監督を通して確認するようなことも多い。
それにしても、同じ様なことを何度も聞かれたりするのはいかがなものかとは思う。
監督なんて居なきゃいないで進んでいきそうなものだが、監督業は必ず設置される。
紅茶にしますか?コーヒーにしますか?と問われて、んーーじゃあコーヒーでとうのが監督の仕事だ。自分で飲むものを決めるのは別にどうということもないが、100人の客に出すコーヒーを決めるとなれば悩むこともある。
どの豆使いますか?ブラジル?コスタリカ?浅煎り?深煎り?とどんどん細分化していけばコーヒー出すにも幾つもの決断が必要になってくる。
フレーミングすること、切断することを担う役割というわけ。
昔の舞台芸術は劇作家が演出家を兼ねていた。
その役割が分業化されたのは19世紀後半らしい。意外と最近。
電気が出来たり、舞台表現が複雑化したのが理由ではないかと言われている。
決断を担う人間は色んなところに存在している。
どんな人間だろうと皆がそいつに決断を任せるとなったら、そいつは色んなことを決断していくわけだが、何にせよ決断する人間は必要とされているのは面白い。
人間の個人の決断だって、恋愛を他人(親とか)が決めていた時代は長かった。
いまだって他人の決断に身を委ねていることは山ほどある。
監督だって他人の決断に身を委ねたい時もある。
どっちでもいいよ、と私なんかはまあ放り投げてしまうこともしばしばだが、あとで文句言われたらやだななどど思われているかもしれない。
小さな決断も沢山あれば時間がかかるもので、監督が決めなくても良いのでは?というものまで判断しているといくら時間がっても足らない。
生きるか死ぬかがかかった決断をするとなったら、そりゃあ決断にも勇気が必要であろう。
アニメ作っている人が死ぬ、ということも滅多にない。
過労とかでスタッフが倒れないようには気をつけねばならないけど。
政治家は生き死にがかかった様な決断を迫られる場面もあるわけで、それはしんどいだろう。
しんどさに鈍感か、余程の使命感に駆られた人間だけが、その決断をになえるのかもしれない。
そんな決断をする人間を選ぶ決断をして投票箱に紙を滑り込ませる。
ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【07】絶版ばかり…理論書
映画理論の歴史の流れがやっと分かってきた。
そもそもは1920年代、認知心理の学者らしいヒューゴー・ミュンスターバーグが書いた「映画劇――その心理学的研究」映画研究の嚆矢とされているようだ。
そのあと色んな研究がありつつ精神分析などと結びつきながら記号学的な方向へ収束していき、停滞。みたいなことらしい。
批評的な研究はずっと続いているけれど、実践と結び付けられそうな理論は80年代からそう変わっていないよう。
ミュスターバーグの論文が読みたいが、邦訳の載ったフィルムアート社の「映画理論集成」は絶版。
なんとか手に入れたい。昔はどこでも売っていたのだが…買っておけばよかった。
実践に使えそうなところとしては、認知科学的な理論と記号学的なものとアタリをつけていたものの、ごく初期が認知科学とは知らなかった。
ミュンスターバーグが、映画は観客の心に結像するのが最終形態、的なことを言っているらしく、納得。心的な現象として捉えていたらしい。その流れで精神分析と結びついていった様子。
ミュスターバーグは物語映画しか扱っていなかった、などの理由で批判されたりもしていたようだ。
そもそも心理学者なので映画論はあまり書いていない模様。
自分の趣向的にはアンドレ・バザン的な現実を映しとることが映画の最高みたいな方向に似ていると気づく。
エイゼンシュタインはモンタージュで現実を超えた何かが(ちょっと違うか?)立ち現れる的な世界観。
実質はエイゼンシュタインとバザンの中間あたりかな。
記号学的にはメッツの理論を押さえておけば、まあ大丈夫そう。
しかし絶版なので読めるか微妙。
水声社に在庫があるものもあったと思う。
間接的には浅沼圭司を押さえるしかないか。
浅沼圭司「映画のために」も絶版ぽいが…。水声社のオンラインショップに書影があるから一応まだ在庫を持っているのではないかという期待。
映画理論の流行ってい無さよ…。
「Film Art」という今も毎年更新されて出ているらしい映画の教科書は名古屋大学出版会から、しばらく前に出ていて、それはパラリとめくった。
初学者向けで映画制作全般にまつわる話題を網羅的に扱っている感じなので、良い本だが演出技術的なものは薄め。
まだちゃんと読んでいないが「VISUAL STORY」というボーンデジタル出版から出ている本は南カリフォルニア大学で教えている先生の構図とストーリーの関係について書いてあって比較的に面白そう。
東京大学出版会から出ている「映画論の冒険者たち」の著者がnoteで映画理論の重要本を70冊紹介していて参考になる。ミュンスターバーグにも触れられているのでこの本は読んだ方が良いかも。
正月に読もうと思った本が何も読めていない。
どこで読めるかな。
見送った【2025年12月31日】
むぎは土曜に病院に行って、1、2日持たないだろうと思っていたが驚異的な生命力で4日も生き延びた。
食事は病院に行く前の晩から何も食べておらず、ここ2日くらいは水もほとんど飲んでいなかった。
たまに注射器で入れてやった水を飲み下すくらいのものだった。
家に来た時は6歳くらいの推定年齢とのことだっが、先ほど保護主からの連絡で昔のカルテがでてきたらしい。
それによると2015年の生まれ、で10歳くらいだったようだ。
6歳にしてはしては少し鈍臭いと思っていたが納得した。
1本しかない歯はキュートだったが、多頭飼育していた老人の扱いの酷さが窺える。
家に来た当初は子猫の様におもちゃで遊んでいて、子供返りしていたようだ。
異様に人懐こく、老人が最後まで手放さなかったのも納得できる気がする。
むぎは老人の家を脱走し、飼い主を探し当てたところ多頭飼育崩壊の現場だったということらしい。
今日の昼間は比較的穏やかな顔をしていて、人の動きに顔を上げて見つめたりもしていた。なにせ人懐こい猫だったので、そこにいろ、ということだったのだろう。
逝ってしまう直前までは、なんだかこのままずっと居るのではないかと思ってしまうほどだった。
こちらの気持ちも少しは落ち着いて、いつものように接してみとってやれた様な気はする。
家の中は1年前にタイムスリップした様だが、むぎの爪痕はしっかり残っている。
前にも世話になった葬儀屋に大晦日の18時過ぎという時間帯に連絡してみたところ、1月2日から対応してくれるとのことで、助かった。
今はあまり実感も湧かないが、しばらくしたら喪失感がどっと押し寄せてきそうだ。
やろうと思っていた仕事はあまり進んでいないので、正月は年末に片付ける予定だったものを片付けねばならない。
ベテラン演出家が担当していたものを引き継いでいたものだが、基本的なことができていなくて唖然とする。
編集の時に気づけよという話なのだが、ベテランだし後で何とかするつもりなのかとタカを括っていた処もあり、非常に反省した。
とはいえベテランを叱責したりするのも嫌なものがあり、憂鬱。
むぎの病気を知る前日、voilの忘年会があり大高くんに参加せよと言われたので顔を出した。
久しぶりに若者とたくさん話して、というか社長大高くんに送り込まれて私のところへ来ていたのだが、皆なかなかのキラキラで前向きな若者たちで少し心が洗われた。
結構いい会社だな、voil。
年を越した感覚はない。
2026は仕事も心も空っぽ。
何かで満たせるだろうか。
いつもの授業【2025年12月22日】
週末は、毎年恒例になったDA-academy(声優向けのワークショップ)の授業。
いつも時間オーバーで駆け足になるので、抽象的な部分を少し省略して臨んだ。
結果的には、もう少し見直した方が良いか…と喋りながら考えた。
リアリティの話を演技に具体的に紐づけたのは、まとまって分かりやすくなっのだが、物語・フィクションの必要性や無意識の話をバサっと落としたので、若干膨らみを欠いてしまったかもしれない。
1時間で演出について話す、というのがそもそも難しいのだが重複する様な部分もあるので整理すればもう少し内容は詰め込めるかもしれない。
とくに無意識の話はあった方が良いかもしれない。
演技には凄く関係するから。
おまけのオーディションについての話が、一番反応がヴィヴィットだった。
それはそうだろうという気もするが、演出家がオーディションにおいて絶大な権限を持っている時代でも無いので、どの程度参考になったのかは分からない。
長い間そこそこ稼げるようになるといいのだが。
日曜は久しぶりに植物を買いに出かける。
ケイトウの寄せ植えがダメになったので、かわりを見繕う。
ストック、プリムラジュリアン、ネメシア、初雪カズラ、ワイヤープランツ、で作るつもり。
パンジー・ビオラも綺麗なものがたくさんあったのでつい幾つか買う。
植える鉢がないのだが。
あとはアネモネ極。
他にもアネモネは欲しかったが持って帰れないので断念。
ローダンセマム・サファリアイズがあったが、これも断念。
ほかにも幾つか欲しいものがあってキリがない。
とりあえず鉢を買わないと。
ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【06】番外:小川哲「言語化するための小説思考」
映像技法ではないけれど、とても面白かったのと教える時に役立ちそうなのでメモ。
著者は技術書ハウツーの類の本ではないと言っているが、小説創作の過程がわかりやすく言語化されていて面白い。
1)小説刻の法律について
小説家も読者を意識する、した方が良いと言う話。
小説法に違反すると「駄作だ」「面白くない」とか言われるらしい。
SF、エンタメ、純文学、推理、などジャンルによって読者の読み方が違う。
誰に向けて書いているのか意識しないと批判されたり、伝わらない。
そもそも、自分と自分以外の小説の読み方、楽しみ方が違う。
自分が面白いと、読者が面白いのすり合わせが必要。
2)小説の勝利条件
将棋のAIによる形成判断が、小説にあったらどうか?と言う話。
小説には明確勝利条件が存在しないが、読者に面白いと思わせることと仮定して話が進む。
桃太郎を書くとしたら何処から書くか、将棋の手の選択のようにいくつかの選択肢の中から小説家がどの様な思考で選択肢を絞っていくかについて。
3)知らない世界について堂々と語る方法
世界の構造の抽象化と個別化
自分の知っている、あるいは調べた(聞いた)世界を抽象化して別の世界に置き換えて個別化すると言う話。
4)文体とは何か?
著者が文体においてもっとも重要だと考えている要素「情報の順番」の話。
「読みやすさ」とは「登場人物と読者の情報量の差を最小化する」ことではないか?
5)君はどこから来たのか、君は何者か、君はどこへ行くのか
新人賞の選考は「突然知らない人から話しかけられる」体験に近い、と言う話。
今されている話は、笑えるのか、怒っているのか…作家との文脈がないと分からない。
多くの人は行き先のわからない電車に乗っていると不安に感じるようだ。
新人作家は、作品がどこへ向かって何を与えるか(可能な限り)作品の序盤で明らかにした方が良い。
6)小説はコミュニケーションである
知人・友人との話は多くの事前情報を共有している。
読者とのコミュニケーションを円滑にするためには、適切の情報を与えなければいけない。
7)伏線は存在しない
読者はいつも展開を予想しながら読み進め、書き手は読者の予想を想像しながら展開を決めていく。
小説は伏線そのもの。
「展開を暗示すること」と「暗示されていない展開に対する違和感を減らすこと」の二つによって成立している。
8)なぜ僕の友人は小説が書けないのか
つまらないアイデアの2つのパターン。
「専門性が高すぎる」「陳腐すぎる」
「主張」や「設定」から発想しようとするのではなく「書いてみたいこと」や「考えてみたいこと」から考えてみた方が良いのでは?と言う話
9)アイデアの見つけ方
商業的に成功する人は「もともと読者(他者)の物差しを内面化している人」か「なるべく読者の物差しに合う様に、自分の物差しを調整した人」
読者の分析は非常に難しい、分析の質を上げるには「作品を発表すること」が一番近道なのではないか。
面白い小説に必要なのは「新しい情報」か「新しい視点」
アイデアは発想力やオリジナリティではなく見つけるものではないか?
10)小説ゾンビになってわかったこと
小説を探す上で最初に捨てないといけないもの=自分の価値観
価値観の相違の中に、まだみぬ小説がある…かもしれない
どれも極力具体的に語られていて、わかりやすい。
特に文体と順番の話は映像にとっても重要。
