ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【06】番外:小川哲「言語化するための小説思考」

映像技法ではないけれど、とても面白かったのと教える時に役立ちそうなのでメモ。

著者は技術書ハウツーの類の本ではないと言っているが、小説創作の過程がわかりやすく言語化されていて面白い。

1)小説刻の法律について
小説家も読者を意識する、した方が良いと言う話。
小説法に違反すると「駄作だ」「面白くない」とか言われるらしい。
SF、エンタメ、純文学、推理、などジャンルによって読者の読み方が違う。
誰に向けて書いているのか意識しないと批判されたり、伝わらない。
そもそも、自分と自分以外の小説の読み方、楽しみ方が違う。
自分が面白いと、読者が面白いのすり合わせが必要。

2)小説の勝利条件
将棋のAIによる形成判断が、小説にあったらどうか?と言う話。
小説には明確勝利条件が存在しないが、読者に面白いと思わせることと仮定して話が進む。
桃太郎を書くとしたら何処から書くか、将棋の手の選択のようにいくつかの選択肢の中から小説家がどの様な思考で選択肢を絞っていくかについて。

3)知らない世界について堂々と語る方法
世界の構造の抽象化と個別化
自分の知っている、あるいは調べた(聞いた)世界を抽象化して別の世界に置き換えて個別化すると言う話。

4)文体とは何か?
著者が文体においてもっとも重要だと考えている要素「情報の順番」の話。
「読みやすさ」とは「登場人物と読者の情報量の差を最小化する」ことではないか?

5)君はどこから来たのか、君は何者か、君はどこへ行くのか
新人賞の選考は「突然知らない人から話しかけられる」体験に近い、と言う話。
今されている話は、笑えるのか、怒っているのか…作家との文脈がないと分からない。
多くの人は行き先のわからない電車に乗っていると不安に感じるようだ。
新人作家は、作品がどこへ向かって何を与えるか(可能な限り)作品の序盤で明らかにした方が良い。

6)小説はコミュニケーションである
知人・友人との話は多くの事前情報を共有している。
読者とのコミュニケーションを円滑にするためには、適切の情報を与えなければいけない。

7)伏線は存在しない
読者はいつも展開を予想しながら読み進め、書き手は読者の予想を想像しながら展開を決めていく。
小説は伏線そのもの。
「展開を暗示すること」と「暗示されていない展開に対する違和感を減らすこと」の二つによって成立している。

8)なぜ僕の友人は小説が書けないのか
つまらないアイデアの2つのパターン。
「専門性が高すぎる」「陳腐すぎる」
「主張」や「設定」から発想しようとするのではなく「書いてみたいこと」や「考えてみたいこと」から考えてみた方が良いのでは?と言う話

9)アイデアの見つけ方
商業的に成功する人は「もともと読者(他者)の物差しを内面化している人」か「なるべく読者の物差しに合う様に、自分の物差しを調整した人」
読者の分析は非常に難しい、分析の質を上げるには「作品を発表すること」が一番近道なのではないか。
面白い小説に必要なのは「新しい情報」か「新しい視点」
アイデアは発想力やオリジナリティではなく見つけるものではないか?

10)小説ゾンビになってわかったこと
小説を探す上で最初に捨てないといけないもの=自分の価値観
価値観の相違の中に、まだみぬ小説がある…かもしれない

どれも極力具体的に語られていて、わかりやすい。

特に文体と順番の話は映像にとっても重要。

PVが出た【2025年11月16日】

今週は久しぶりにお酒を飲んで、久しぶりだからと言うわけでも無く多分料理が美味しすぎたせいで飲みすぎた。

前菜は盛り合わせだったので記憶が曖昧。

ヤマメは柔らかくて頭から尻まで食べられた。

パスタも忘れた。

肉は山羊、全くクセがなくて柔らかい。

まだ行けると、うっかり追加した白トリュフのオムレツは美味しすぎ、すっかり平らげワインを継ぎ足してもらったのがダメ押しだったかもしれない。

更にデザートを頼みデザートワインも頼んでしまった。

マスカットのワインが香りも味も好みだった。マスカットだから重い感じなのかと思いきやそんなことはなく、スッキリしつつ燻ぶした感じと果実味と酸味がいい感じに混ざって渋い。

レプリカだって、恋をするの新しいPVが出た。

どの程度ネタバレするか、というのは宣伝の考え方が分かるので面白い。

結構ネタバレしても大丈夫だと言う話をしたが、途中で見たものより少し抑え気味になってた気がする。

原作ものは、そもそも原作を見れば全てわかってしまうので、お話的なネタバレを抑えすぎてもあまり意味はない。

見たくなってもらう、ということが肝心。

原作を好きな人は大体見てくれるので、どちらかと言うとアニメで初めて触れる観客向けの塩梅になると思う。

何が作品の売りなのか、どう言う人に見てもらいたいのか。

宣伝から見えてくるので面白い。

植物日誌【2025年11月09日】

最後の音響作業に行った帰りに園芸店に寄って植物を物色できた。
忙しすぎて外にはほとんど出ていなかったので、息抜き。

時期的にはパンジー・ビオラに突入してしまっているので、宿根草はあまりないかと思っていたが、結構売っていてにっこり。

ジギタリスは沢山あったが、去年の株がまさかの夏越しして植える場所がない。
来年は違う色に植え替えるのも良いかもしれない。

去年の秋植えして盛大に咲いてくれたバーバスカムは花が終わって引っこ抜いてしまったのだが、色違いの品種がいくつかあったので、オレンジ系のものを買った。
ほんとに手間をかけず咲いてくれて良い。

今年はムシの類が大発生して対処しきれず結構枯らしたので、なるべく丈夫な品種を選びたい。

ペンステモン・ハスカーレッドを発見。
今年の春に通販で買った株を枯らしたので迷ったが、秋植えならいけるかもとしれないと小さな希望をいだいてゲット。
赤みががかった黒い茎に白い花が咲くところを見てみたい。

あとは寄せ植えのジニアが枯れかかっていたので、白とピンクの金魚草を買ってきて植え替えた。

寄せ植えの植え替えも我ながら随分手慣れてきた。

宿根草系は2年くらい経たないと本領が発揮されないものもあり、管理が難しく欲しいものはありつつも、うまく育つだろうかと躊躇することしばしば。

しかし1年に1回しか出会えない植物もあるので植えられるうちに、もう少し探しに行きたい。

経験しないと上手くならないのだ。

最近のアニメのスタッフも1年に担当できる話数は1、2本。

とにかく舐め尽くす様に体験するしかない。

ダグラム【2025年10月27日】

しばらく前、ダグラムを見た。
たぶん新潟では放映しておらず、いや放映していたかもしれないが見ていないと思う。

子供の頃見ていたアニメで1話から最終話まで全部きちんと見た、作品はあまりない。
うちにはビデオもなかったし。

大学に入って東京に出てレンタルやら友達に貸してもらったりで一通り見たものはある。
しかし、仕事を始めてからあらためて昔の作品を見返すという気力もなく(昔は長い作品が多い)好きだったと思っている作品も穴あきでしか見ていないものが結構あるはずだが、見ずに死んでいくものが多い気がする。

ダグラムは穴あきも何も全く見ていなかったのと、当時の戦争ロボットものとしてはガンダムに続く作品の様なイメージもあり、どんなものかと興味があったので仕事しつつ流し見したのだが非常に良くできていて驚く。

絵的にはだいぶ大味なのだが、脚本がとにかくよく出来ている。
ガンダムと同じ様な独立戦争の話だが、主人公の父親が地球の大物政治家なので周辺からでなく政治の方からも描いていて、それが大変面白い。

主人公は10代で地球の軍隊でロボットの操縦を覚えていて、敵方のゲリラに参入して最新ロボットを操るという辺りは子供にむけた作り。

しかし白眉は大人の描き方で、とにかくいろんな立場の人間を丁寧に描いた群像劇になっている。これ子供向けか?とも思うがロボットがカッコよく動いていれば男の子は見ただろうし、全体で73話もあるので玩具が売れていたに違いない。

玩具が売れれば何でもできる、というのは時代の豊かさであったと思う。

権力の駆け引きや人情、暴力と子供には少々難しい話の様に思えるがどの程度伝わっていたのだろうか。

父と息子、が子供的には身近でわかる唯一のテーマだったかもしれない。

なにせ面白かったのはラコックという主人公の父親ドナン・カシムの補佐官で、この人が数々の謀略を考え自体をかき混ぜ、ついにドナンを殺そうとまでするという大変な人物で途中からは、この人中心にドラマが展開していた。

ラストもあまり煮え切らず、独立がハッキリ叶った訳でなく主人公たちが生き延びることが希望なんだというところで終わるのが全く娯楽的ではなく、よくこんなラストが通ったなと感心する。73話もあったからこそ描き切れたということもあるだろう。

セリフもきちんと戦記物を作ろうという気概が感じられて子供向けにわざわざ手抜いている感じはない。

作り手はそれなりに若かったと思うのだが、結構勉強していないと出てこない様なテーマを扱っていて大人のシナリオという風情で驚く。

豊かな時代だったんだなと、少しため息がでた。

型【2025年10月19日】

とにかく細かなトラブルが続出で、暇ができない。

なんでやねん、と突っ込みたくなる。


アニメは自動車の様に同じ型を使ったりあなじ作業の連続で作られる様なことはない、というのはアニメ研究で聞かれる話であるけれど、これは半分当たっていて半分外れだと思う。

歩きや走り、アクションの様なものでも実は型があってその変形で作られている部分は多々ある。
歩きは最近は、どんなものでも3コマ中5だし、走りは3コマ中2。
中は中割りの略。
2枚原画を描いて5枚中割りを入れて1歩18コマの歩きが定番のスタイル。
人間の歩きは1歩1歩微妙に歩幅や体の動きが違うものだが(訓練されて、ほとんど変わらない人もいるだろう)そんな微妙をかき分けていたら完成しない。

ロトスコープは実写を下敷きにする分、動きについて考えることを省略するというスタイル。

自動車なんかに比べたら全く劣るが、生産性を上げる工夫は無いわけではない。

型だけで作っていると何か見覚えがある様なものしか出来ないので、少しの隠し味をどうつけるかが腕の見せどころ。

隠し味にしろ大きな型にしろ伝統は伝わっているものもあれば失われている様なものもあって、時代の趨勢で失われたものは仕方ないとしても良きものは記録・保存されていくと良いのだが記録する術が今のところない。

アーカイブとか一応計画はあるけれど、政治が混迷する中どうなる事やら。

原作と同じとはなにか?【2025年09月18日】

SNSでぼっち・ざ・ろっくの脚本家の講演録が炎上していた、ようだ。

脚本家が原作の一部をノイズ(記事のタイトルにも使われた)として削除した、という部分に食いつかれていた。

そのノイズというのが性的表現に関するもので、余計に火種となったのだろう。

脚本家が原作の当該部分をノイズと判断した、という受け取られをしていたが、発案が脚本家だったにせよ、原作者も含めた会議体が判断したのは本文を読めば明らか。

延焼したのは知念実希人という小説家とくりした善行という元国会議員が参戦したからだろうか。

炎上させている輩は、インタビューを読んでいないか読んでいても読めていないか、倫理が欠如しているかという、ところなのであまり興味はないのだが、くりした善行のポスト(しかも英語の)中になるべく原作通りに作ってもらいたい、という趣旨の発言があったのは引っかかった。

漫画であれ小説であれ、アニメ化ドラマ化の際に原作通りである、というのはどういうことなのだろうか。

原理主義的に言えば原作は原作そのものであって、原作通りとは原作を翻案しないということに他ならない。

メディアを移せば様々な形態の変容を余儀なくされるのが翻案だ。


アニメで言えば、テレビシリーズであれば1話20分、12か13本のフォーマットに起こすのが主流になっている。

そもそも漫画、小説は時間を持っていない。映像は時間が物理の時間が流れ、決定的な役割をする。

漫画の場合であれば、2〜3話数くらいがアニメ1話分時間を有するという場合が多い気がする(作品によって違う)

この段階で、原作と印象が変わるのは間違いない。
どこで1話が終わるのか、というのは必ず頭を悩ませられる問題で、映像の時間に換えると中途半端なところで話が終わってしまう、あるいは長すぎるということが起こる場合は少なくない。

そうすると、追加部分を作る、あるいは削除するということになる。
もうこれだけで、原作通り、など不可能。
削除、追加はメディアが変わる以上は避けて通れない。

しかし、可能な限り原作通り、という風潮は制作現場全体にある。
特に最近は。

何のためにアニメ化するのか、基本は金のため、で高邁な原作をより世間に知らしめるため、などということは殆どない。
売れている原作は、良くできている、ものが殆どなので金を追求することがつまらないものを作ることにならない場合が多く、儲かる作品を翻案することは良い作品を作ることと意外と矛盾しないことは多い。

しかし、翻案するということは原作が形を変えることなのであって、原作者が換える先の形について詳しいなどということは無い。
詳しいなら原作者がアニメ監督、映画監督になれば良い。
原作者が監督したところで原作通り、にはなり得ないのだが。


アニメ制作は翻案する意味を宙吊りにしたまま、作品をつくることが多くなってしまっていると思う。

数打ちゃ当たる、という方針だ。

それだけの数の作品に投資できる様になっているのは凄いことではあるのだが、なぜアニメ化?と疑問符が浮かぶ作品も多々あることは間違いない。
翻案の方法についてもあまり深くは考えられていない。

そして、今の様なやり方の翻案ばかりではアニメの作り手の技量が落ちていくのは間違いない。

秋は虫【2025年09月13日】

今週はひたすらデスクワーク。

そりゃ、この仕事は8割デスクワークなのだけど。

打ち合わせの類も少しあっただけ。


イスラエルは相変わらず派手に戦争している。
カタールの首都ドーハへの爆撃はなかなか衝撃。
ハマスのとの交渉をしていた場所を爆撃とかスパイ映画さながら。

ドーハといえばサッカー日本代表が最後の最後でゴールを決められ、あえなくワールドカップ行きの切符を逃した地として90年代キッズたちの記憶に刻まれているところ。

そこから日本サッカーはぐいぐい強くなって、今やワールカップ常連なのだから驚く。

キャプテン翼が週刊少年ジャンプで連載されていた頃は、日本サッカーはそれほど強くなかった。

翼くんの活躍と機を逸にする様に日本サッカーは強くなっていった、というか盛り上がっていった訳で大空翼は偉大だ。

wikiによると81年から88年の連載となっているから、私の小学校高学年から高校くらい。私ら世代は野球よりサッカーファンが多いんじゃなかろうか。

他のスポーツだと、それほど象徴的なキャラクターはいないのかもしれない。

野球は星飛雄馬が現れる以前から人気だったろうし、矢吹丈はボクシング人気を大きく引っ張り上げたというほどでもない様な気がする。

日本のアニメの視聴者の半分は海外の観客になって、上手くいけば翼くんのような影響力を世界に与えるキャラクターがまた現れるかもしれない。

違う言語で、同じ主題歌を合唱できたりするのは面白い。

コガネムシの幼虫に根っこを食い荒らされたプレクトランサスはなんとか生き延びている。
鉢から取り出した幼虫はどうもアリに襲われたらしい。
気の毒な気分。

アリッサムも虫に喰われて葉が殆どないが、一応生きているようだ。
結局一回も花が咲いたことがないので、いっそ処分するかと思っているが、一度くらい咲かせてみたく、迷って放置している。

とにかく今年は虫が大量発生。

薬を撒くしかないんだろうな。

暑さは和らぐ日も出てきたが、なかなか冷めやらない。

植物日記プレクトランサス楽しみ〜生存の危機・人を育てる【2025年09月07日】

プレクトランサス・モナラベンダー、シソ科の植物で紫色の綺麗で小さな花を沢山上げる。葉も表が濃い緑、裏側が紫で美しくリーフだけでも楽しめる。

去年の秋に買って地植えしたらそこそこ大きくなって花も沢山あげてくれた。
寒さに弱いというのでダメ元で鉢上げして極寒の時は屋内に入れたりしながら管理したら冬を越えてくれて、春には株もかなり大きくなり8号くらいの鉢に植え替えまた秋に花をあげるのを楽しみにしていた、のだが…。

苗メーカーの説明を先日目にした。花期が5月から11月とある。
え?全然咲いてないんですけど。

なるほど、短日植物で夏は日陰で管理するのが吉、ということらしい。

短日植物は日の長さが短くなると花を上げる。

なので日向に置いていれば、そりゃあ花は上がらないわけだ。

葉焼けして結構葉を落としてしまったくらいだから咲くわけがない。
日陰は日陰で日が当たらなすぎると、植物は調子を崩したりするので難しい。
今年はそれで枯らしてしまったものも随分ある。

近頃は日もだいぶ短くなってきたので、そろそろ花芽が上がってくれるかもしれない。

去年とは比べ物にならないくらい株は大きくなったので、花も沢山上がるはず。

*と思っていたら…翌日バッタリと木が倒れていて、鉢をひっくり返したらコガネムシの幼虫が何匹も出てきた。根はほとんど食べられていて根本近辺に僅かに残るのみ。
これは復活が難しいかもしれない。カイガラムシの様なものも着いていた。


人間も、もはや短日植物みたいなものだ。日が短くならないと活動の幅が大幅に制限される。
危険な暑さ、という言葉が文字通りの意味をもっていて、夏は体温と同じか、それより高い気温を頻繁に記録するようになってしまった。

冬と夏の間のグラデーションがなくなりつつある感覚。

それはそれで、人間は慣れていくものなんだろうけど、ちとしんどい。

植物ですらしんどそうだ。

Les the DJがかけていたNORIKIというフュージョンバンドが気に入った。
野力奏一と言う人のバンドらしい。

ブルーノート主催で秋にやるフュージョンサミットに行ってみたいが暇があるのか?
鳥山雄司のバンドが見たい。

KIKIというタイのポップスのバンドも日本に来るので見たいのだが月末なので無理かな。

文化庁の「総合的なアニメーション人材育成に関する実証研究事業」というのが動き始めた。
とにかく人が足らねえ、と言っているアニメ業界でどうやったら人が育てられるのか、今まで集まったことがなかった様な人が集まって、数年かけて研究しようという事業だ。

現場で学校で何を教えているのか、現場で必要な技術とは?何処にどのようなノウハウが存在しているのかなど、人材育成に関する広い調査研究と、可能ならノウハウを統合・蓄積・共有するみたいなことをやろうとしている。

今は手探り状態だが、せっかく税金を突っ込んでやるのだから、成果は出して欲しいと思う。


個人的にも来年は演出を育てることに手を貸すことになりそうだ。

今までちょこちょこと教えたことはあるものの、時間をかけて体系だって教えた経験はない。個人的に調べていたことを少し急いでやらないといけないかもしれない。

(アニメの)演出家といっても
大きくは、各話演出、監督の2種類に分かれる。

優秀な監督になる様な人材を育てたい、と言われると相当にハードルは高そうだが、そこそこ食っていける程度を目標とするならば、何とかなるだろう。

監督であっても、「そこそこ」で今は十分かもしれない。

人を育てる、なんて昔のアニメ業界はまともに考えていなかった。
それに比べれば随分マシになった。

平気でウチは即戦力が欲しいんだ、みたいなことを言う奴がいたが、アホかと思う。

仕事の告知出たり【2025年08月10日】

私もちょいコンペで参加してた作品が制作発表されていた。

なるほど…という布陣。

監督は作画出身の人でスタジオも結構作画は頑張るところだと思う。

ビジネス周りのパートナーがどんな布陣なのか?

あの作品は、制作単体で決まる訳ではない筈なので。

私たちのチームは落ちた訳だが、大変な作品制作になることは必至だと思うので、自分が決まってたら胃に穴が空いてたかもしれん。

他人の作品はともかく自分の作品も情報解禁された。

「レプリカだって、恋をする」

1年以上ぶりの告知か。

もはや自分の制作能力とは関係なく、皆が寡作になっていく。

一つの作品を作るのにものすごく時間がかかる。

作品は青春、恋愛ものだが、仕掛けが面白い。

シンプルなアイデアを使い倒しているのが素晴らしい。

アニメの方はかなりギュッと圧縮した作りなので飽きずに見られるとは思う。

王道のボーイミーツガールな描写もあるので、割と幅広く楽しんでもらえる作品になっている…はず、まだ完成していないが。

意図せずなのだが、比較的に自分の色が出ている作品になっている。

青春ものの仕事がいつまで自分のところに来るだろうか。

アニメ自体は若い人に向けた作品が多いので、ボーイミーツガールな作品の割合は減りはしないだろう。

内容によるが、歳を取れば作り手と作品の距離は開くので、ずっと作り続けるのは難しそうだ。

恋愛は年齢関係ないので、青春とかでなければ意外と大丈夫。

要は登場人物と作り手の年齢があまりに離れていると、(心情的な)背景の描写も含めて難しくなるだろうということなのだが。

中年向けアニメもこれから増えたりするのだろうか。

リメイクは中年向けではある。
最近のリメイクの多さは、中年の観客が増えたからと思えば自然だ。

登場人物が中年だからといって、中年が見る訳ではないかもしれない。

植物は、最近葉っぱが喰われまくっていた原因はバッタらしいことに気がついた。

いくつかの植物で、あり得ないくらいあっという間に大きな穴が空いてた上に特に幼虫的なものも見つからずで、はて?と思っていたのだが小さなバッタが跋扈していることに気がついた。

バッタを駆除する薬もある様だが、どうも薬を撒きまくるのも嫌だな、と放置している。

少し収まっている様なので、様子見。

梅雨はダンゴムシ、アブラムシなど、今は蟻が大発生している。

植物が沢山あると虫が増えるのは、致し方ないのだろうが、枯らされるのは勘弁してほしいので、来年はやはり事前の対策がもっと必要なのかもしれない。

ここ数日、暑さが少し落ち着いた感じがする。

鉢も水が切れていない。

少し雨も降ってくれたので、地植えの植物もしばらくは大丈夫そう。

終戦から80年ということで、テレビの特集なんかが沢山やっていて、つい見てしまう。

YouTubeには、NHKの映像の世紀でも使われていたアメリカ軍の撮ったドイツの強制収容所の映像なんかが転がっている。

酷すぎて現実とも思えない光景。

ブルトーザーで折り重なった遺体を押しやりながら移動させてる映像なんか、作り物の様に見えた。


アニメも音楽も戦争も人間に熱狂をもたらす。

人間が身体から湧き上がる何かに抵抗することは極めて難しい、ということについて最近考えている。

ストリーボード作成で学ぶ演出(のための準備)【04】「映画理論講義」

いろいろ探してみたけれど一般書で出ている映画理論の入門的な本は殆どなくて、2000年に勁草書房から出たこの本くらいしか見当たらなかった。今も新しい刷りで売り続けてるので参考に良さそう。

映画理論講義 –映像の理解と探究のために

著者:
ジャック・オーモン
アラン・ベルガラ
ミシェル・マリー
マルク・ヴェルネ

訳者:
武田 潔

目次:

序論 …………………………………………………………………………………. 3

I 映画文献の分類 ……………………………………………………………… 5
1 “一般的な”の出版物 ……………………………………………………. 6
2 映画狂のための書物 ……………………………………………………. 7
3 理論的著作 ……………………………………………………………… 8

II 映画理論の諸相 ……………………………………………………………. 10
1 “内発的”理論 …………………………………………………………. 10
2 記述的理論 …………………………………………………………….. 11
3 映画理論と文学 ……………………………………………………….. 11
4 映画理論と技術的実践 ………………………………………………… 12
5 映画理論の多様性 ……………………………………………………. 12
注 ……………………………………………………………………………… 15

第1章 視聴覚的表象としての映画 ………………………………………….. 19
I 映画的空間 ……………………………………………………………….. 21
II 奥行きの技巧 …………………………………………………………….. 32
1 遠近法 …………………………………………………………………. 32
2 被写界深度 ……………………………………………………………. 35
III ショットの概念 ……………………………………………………………. 41
IV 聴覚的表象としての映画 ………………………………………………… 48
1 経済的=技術的要因とその歴史 ……………………………………… 48
2 美的およびイデオロギー的要因 ……………………………………… 49
注 ……………………………………………………………………………. 55

第2章 モンタージュ …………………………………………………………… 61
I モンタージュの原理 ………………………………………………………. 63
1 モンタージュの対象 …………………………………………………… 67
(1) 映画作品の一部分(映画的連辞)でショットよりも
大きいもの …………………………………………………………. 67
(2) 映画作品の一部分でショットよりも小さいもの …………………. 68
(3) 映画作品の一部分でショットへの分割と(完全には)
一致しないもの …………………………………………………… 69

II モンタージュの機能 ……………………………………………………… 76
1 経験的アプローチ ……………………………………………………. 76
2 より体系的な記述 ……………………………………………………. 78
(1) 「創造的」モンタージュ ………………………………………….. 79
(2) 統辞的機能 ………………………………………………………. 80
(3) 意味的機能 ………………………………………………………. 80
(4) リズム的機能 …………………………………………………….. 82
(5) モンタージュの分類法 …………………………………………… 83

III モンタージュのイデオロギー …………………………………………… 83
1 アンドレ・バザンと「透明性」の映画 …………………………………. 84
(1) 「禁じられたモンタージュ」 ………………………………………. 85
(2) 透明性 ……………………………………………………………. 87
(3) つながりのためではないモンタージュの拒否 ………………….. 91
2 セルゲイ・エイゼンシュテインと「映画の弁証法」 …………………. 92
(1) 断片と衝突 ………………………………………………………. 97
(2) モンタージュの概念の拡張 …………………………………….. 97
(3) 観客に対する影響 ………………………………………………. 97
注 ………………………………………………………………………….. 100

第3章 映画と物語 …………………………………………………………… 105
I 物語映画 ………………………………………………………………… 107
1 映画と物語の出会い ………………………………………………… 107
2 非物語映画――境界を定めることの難しさ ………………………. 109
(1) 物語的/非物語的 …………………………………………….. 109
(2) 境界の基準 …………………………………………………….. 109
3 物語映画――研究の対象と目的 …………………………………… 111
(1) 研究の対象 …………………………………………………….. 113
(2) 研究の目的 …………………………………………………….. 113

II フィクション映画 ………………………………………………………… 115
1 あらゆる映画はフィクション映画である ……………………………. 119
2 指向対象の問題 …………………………………………………….. 119
3 物語言表、物語叙述、物語世界 …………………………………… 121

第4章 映画と言語活動 …………………………………………………….. 187
I 映画言語 ………………………………………………………………… 189
1 古くからある概念 ……………………………………………………. 190
2 初期の理論家たち ………………………………………………….. 192
3 「映画の文法」 ………………………………………………………. 197
4 映画における言語活動についての古典的理論 …………………… 201
(1) 伝統的な映画言語 …………………………………………….. 202
(2) 言語活動の消滅に向けて? …………………………………… 203
5 記号なき言語活動 ………………………………………………….. 206

II 映画――言語か言語活動か? ………………………………………… 209
1 映画的言語活動と言語 …………………………………………….. 210
(1) 言語の多様性と映画言語の一律性 …………………………… 211
(2) 言語活動、コミュニケーション、極の入れ換え ……………….. 214
(3) 映画言語の類同的なレヴェル ………………………………… 215
(4) 線状性と離散的単位の存在 ………………………………….. 216
はい、続きをお送りします:

(5) 映画における分節の問題 ………………………………………. 216
2 映画の理解可能性 ………………………………………………….. 218
(1) 知覚的類同性 ………………………………………………….. 219
(2) 「質料的希釈のコード」 ………………………………………… 221
(3) 映画特有の記述形式の形象 ………………………………….. 223

III 映画的言語活動の不均質性 ………………………………………….. 228
1 表現素材 …………………………………………………………….. 228
2 記号学におけるコードの概念 ……………………………………… 230
3 映画に固有なコード ……………………………………………….. 232
4 映画に非固有なコード …………………………………………….. 235

IV 映画作品のテクスト分析 ………………………………………………. 237
1 「言語活動と映画」における「映画作品のテクスト」という概念 …… 238
2 実例――D・W・グリフィスの『イントレランス』
におけるテクストのシステム ……………………………………… 240
3 文学の記号学におけるテクストの概念 ……………………………. 242
4 テクスト分析の抑制性と理論的射程 ………………………………. 248
(1) テクスト分析の主要な特徴 ……………………………………. 248
(2) テクスト分析における具体的な困難 …………………………… 251
注 ………………………………………………………………………….. 259

結論 ………………………………………………………………………….. 351
注 ……………………………………………………………………………. 359

参考文献(I、II)……………………………………………………………. 363
用語対照表 …………………………………………………………………. 403
索引(人名、映画題名、事項)…………………………………………….. 417
訳者あとがき ……………………………………………………………….. 453

原書は初版が1983年、改訂が94年らしいので30年くらい前にフランスで出版されたらしい。

私が学生の頃なので参考で扱ってる映画も古いがまあ仕方ない。

少し読んでみたが凄く抽象的な部分はあるけど、使えそう。

映画評論はずいぶん沢山出ているし理論的な更新みたいなものは無いのか?と思うけど無いのかもしれない。

渡邊大輔が言ってることなんかは新しいと思うけど、入門としては必要ないのか…いやそうでもないような。

YouTubeはじめ映像メディアは様々広がっているので本当は更新されて良さそうだが。

学校などでは、どういう本を教科書で使っているのだろうか?

私が見つけられないだけで、良い本があるのかもしれない。
フィルムアート社から出ている入門書的なものは実務的だけど理論が薄そう。パラパラめくってみただけなんでわからないが。

認知科学とかも随分進んでいるので、その辺りを引いたものもありそうなものなのだが。

その辺を調べ出すと無限に時間がかかりそうなので躊躇してしまうが、多少はやらないとダメそうだ。
そのあたりは良さげな本のあたりがついてるので。

私が学生の時は、ほしのあきら「フィルムメイキング」を使ってた。本人が講師だからだが。
エイゼンシュタインの理論などは、ぱらぱら読んだけど流石に嘘でしょみたいな部分も多くて今素朴には読めない。

「映画理論講義」はそのへんもざっくり整理してあるみたい。とにかくざっくりでも読まないとなぁ…。

実務的なものは他にも良さげな本があるので、参考にしようと思う。最近の学生はそういうのを読んでるのかもしれない。

映画記号論的なものはだいぶ前に死滅してしまったようで、理論書は流行らなくなったのかも。
私が教わった浅沼圭二で終わってるぽい。

映画分析的な本は色々ある。
苦手な蓮實重彦もめくってみるべきなのかもしれないが。

私のやろうとしてることも、どちらかというと実務寄りだし。

久しぶりに更新。