先日、近所の本屋が居抜きで中身が変わりブックファーストになっていたので、つらっと覗いて本を1冊買った。
小川哲「君が手にするはずだった黄金について」
小川さんの小説は読んでみたかったのだが、「地図と拳」は分厚すぎて躊躇してしまい、短編集である本書を手に取る。
読み始めると、つるつると進んであっという間に読み終わってしまった。
小説は読むのに時間がかかってしまうタチなのだが何故だろうか…と考えてみるに、あまり時間が問題になっていないからなのでは、と思い至る。
時間が問題になっていないとは、例えば「いやあ、今日はあたたかいですねえ」などというセリフがあった場合、そのセリフに流れているであろう時間をあまり想像しなくても問題ないという様なことだ。
他にも小説内で当然に物語の時間は流れているのだが、あまりそのことと小説の面白さが繋がっていない。
基本的に判じもののような作りなので、時間とか関係なくパズルを解く様な面白さになっているからだろう。
脚本を読む時などは基本的に20分のテレビアニメの脚本ならそれ以上の時間をかけて読みたい。そんな時間はないことが多いけど。
何故かといえば、脚本上で流れている時間は映像化する時、決定的に重要になるからだ。
脚本を読むのも慣れてくると、読み飛ばしても大体そこで流れている時間が感覚である程度はわかる様になるのだけど、ゆっくり読んだ方が正確だと思う。
ゆっくりというか、声に出して音読するか、声に出さないまでも頭の中で音読して物語の中にある時間を想像したほうが脚本上にある時間を比較的正確に体感出来るだろう。
アニメのセリフの長さは基本的に演出家が決めるのだが、新人の頃は必ず声に出して読めと教えられたものだった。頭の中で読んでセリフを測っているのと声に出して読むのとでは随分違うことがあるからだ。(特に新人のうちは)
私が本を読むのが遅い、という要因の一つに頭の中でつい音読してしまうということはあるのだろう。読むのが早い人はきっと音声化していないに違いない。
いまは小さい字を読むのが苦手(老眼だから…)とか他の要因も多々あるのだけれど、文章を音にしてしまうのは、本を速く読むいう意味では短所で、しかしアニメの演出家としては長所である。
流れている時間を味わうことが、圧倒的に物語の面白さに繋がっている小説というものもあるわけで、そういう小説はやはりゆっくり音にして味わうほうが良い。
能楽師の安田登さんは古典を声に出して読むと全く違う味わいがわかるという様なことを言っていたが音としての言葉は音にしないとわからない。
それはそれとして小川晢の小説はさくさく読めることが分かったので、そのうち「地図と拳」も読んでみよう。
全く関係ないがSNSを見ていたら接地面の見える歩きは必ず必ずフリッカーか地面の滑りが発生するので避けたほうが良いという様なことを言っている方がおられたが、まあフリッカーが起きようが滑りが起きようが地面を見せることが必要なこともあるよ。と演出家としては思うのだった。