今週末は雪も降りそうとかで、ずいぶんあったかいと思っていた冬もそれらしくなってきた。
手持ちだったコンテを終わらせて一息つく。
久しぶりにやるタイプの作品だったので楽しかったものの手こずる。
1月新番で小高くん監督の「休日のわるものさん」が始まったらしい。
エンディングのコンテだけお手伝い。去年の頭の方で描いたような気がする。
小高くんはスタジオジュニオの同期の演出で、入社は彼の方が早くて制作を何年かやっていたのだと思うが私と同じタイミングで演出になったのだと記憶している。
彼はジュニオのメインのスタジオ所属で阿佐ヶ谷の北の方、社長の香西さんもいる早稲田通りに面したスタジオにいたと思う。
私は岡崎稔さん(ドラゴンボールの初代監督)が率いる別の班で南阿佐ヶ谷のあたりにスタジオにいた。
スタジオジュニオは元々東映から別れたスタジオで老舗なのだが入るまでは全く知らなかった。
私のいる班は、ベテランだと前田稔さん(ドラゴンボールのキャラクターデザイナー)や我妻宏さん(一休さんのキャラクターデザイナー)がいて、他にはスラムダンクのデザイナー佐藤正樹さんや堀内修さんがいた。
仕事としては我妻さんが演出として作っていたアメリカとの合作がメインの班だった。
数人いた私と近い年の若者たちはたまにくるグロスのテレビの仕事などやっていたようだった。私が入った時はレッツ&ゴーを受けていて少し手伝ったと思う。
私は演出志望の制作として入ったものの当時まだ免許を取っている途中で、最初は撮出しの手伝いなど演出助手的な仕事をしていた。
半年もしたころ「はりもぐハーリー」というNHKの帯アニメに入れと言われてそれがデビュー作となる。
本当のデビューは何か公共広告的な短尺のアニメの演出なのだが、どこで使われたのかも、タイトルも覚えていないので、まあ置いておこう。
小高くんもハーリーがデビューで同期というわけだ。
監督は神戸守さんで、ジュニオ生粋の演出だった。他にジュニオに所属していた演出は佐山聖子さん。あとはフリーの演出を使っていたと思う。後輩だと平池芳正がいる。
私は全くなかったが、小高くんも先輩から手取り足取り教わったという経験はしていないように思う。よくそれでやっていたもんだと思うが、私はそれでしばらく苦労することになる。
ハーリーは半パートを何本かやらせてもらったが、デビュー作からクレジットを間違えられて、私の担当したものは別パートの担当の方の名前になっている。
なんでそんなことが起こったかというと普通の人は2本まとめて担当している場合が多かったからだと思う。
私は新人なので、十数分の普通のテレビであれば半パートぶんくらいの話を1本ずつもらっていたからだ。それにしてもデビュー作から間違えられるとは酷い。
小高くんとはその頃知り合って、しかし会社はそれからしばらくして倒産してしまうので同じ作品に入ることはなくなっってしまった。
あれから幾年、なんとか二人とも生き残って仕事で関われたのは僥倖だ。
私のいた班は倒産騒ぎでジュニオから別れてシナジージャパンとなる。
その後、社長と揉めて私はフリーランスとなる。
ピカちんキットで古巣に関わることになるとは思わなかったが…。
もう当時のことは、かなり記憶が薄らいでしまった。
若かったな。