日: 2025年2月17日

  • 1995年【2025年02月17日】

    1995年【2025年02月17日】

    1994の年末辺りからアニメ制作会社で働き始めた記憶があるので丸っと30年くらい経つのだと思う。
    よく続いたものだ。
    記憶が薄れかけているので当時のスタジオについて思い出してみる。

    最初(で最後)に入った会社はスタジオ・ジュニオをという老舗のスタジオだった。老舗だというのは入るまでは知らなかったのだが。
    私の入った班は元ドラゴンボールの制作班を母体にしていて、監督だった岡崎稔さんの管理する班だった。
    社長は香西隆男さんだったので岡崎さんの役職が何だったのか分からないままなのだが、後に別れて今のシナジーSPという会社になり、そこでは社長だった。
    私は演出助手(兼制作)という当時にしては特殊な形態で採用された。
    最初から演出助手で採用している会社は多分なかったのではなかろうか。
    当時私の入った班は合作と呼ばれるアメリカのカートゥーンの下請けと日本のテレビのグロス受けという2本柱で回していたようだ。
    グロス受けとはテレビシリーズの中の1本を個別に下請け制作する仕事。
    合作の演出は一休さんのキャラクターデザイナーだった我妻宏さんが担当していた。
    合作は日本のテレビシリーズであれば原画単価1カット3千数百円だったが、秒単価で5千円くらい出ていたと記憶しているので、比較的に割の良い仕事だったのだろう。
    1カット3千数百円は衝撃的に安いな、と思ったものだ。
    当時は月に40カットくらい描く原画マンはまだ沢山いて、それはそのくらいやらないと食べていけないから引き受けていたのだけれど、40カットやっても20万にも届かない。
    私の給料も初任給たしか12万くらいで安かったが、アニメーターに比べれば遥かに安定していた。
    TBSの初任給が20万位と求人票に書いてあった時代。

    入ったばかりの頃、私は自動車の免許を取得中で、制作の仕事は殆どまともに出来なかった。
    同僚の制作たちも、変わった待遇で基本17時か18時頃に退社でOKな超ホワイトな扱い。
    ホワイトだが、制作の仕事が円滑に回っていたとは言い難そうだった。

    当時のジュニオは3つの建物に分かれていて、それぞれ全く別の仕事をしていたという訳でもないが私の班は独立していた印象。
    岡崎さんがスタジオで気楽に使える演出が欲しくて私を採用したのだろうと思う。

    入ったばかりの頃、岡崎さんの(多分取引先とかを見せるための)ドライブに付き合って、いいとこを見せてやろうとしたのかお台場に移る前のフジテレビに連れて行かれた。元ドラゴンボールの担当Pが突然の訪問に困惑しながら対応していたのが面白かった。

    当時の岡崎班の構成は、ベテランに我妻宏、前田実。中堅は堀内修、佐藤正樹、久保川美明。若手が高田晴仁、槙田一章、安彦英二、他数名で基本アニメーターしかおらず会社の仕事をしている人も少なかった。
    出入りしていたフリーの演出家は大関雅幸氏だけで、私は彼の担当していたレッツ&ゴーの撮出しを手伝ったのが割と最初の仕事だった気がする。
    もちろん撮出しとは何なのかは殆ど教えてもらわなかった…。
    誰も教えてくれないので怒られつつ覚えるという方法でしばらく生き延びる。

    初めての演出と呼べる仕事は、入社して数ヶ月後だったかの公共広告みたいな仕事で、ごみはみんなのたからもの、みたいなタイトルだった気がするけれど右も左もわからないのに絵コンテと演出までやらせてもらった。
    岡崎さんは良くも悪くもいい加減だったので、入社半年後くらいには今のおじゃる丸なんかやっているNHKの帯番組の「はりもぐハーリー」という作品の半パートを絵コンテ演出して、それがテレビアニメデビューなのだが出来はもちろん酷かった。
    とはいえ、オンエアを楽しみに見たところ私の名前は無い。
    1話の前半と後半で話しが違う2本立ての作りだったせいで両方とも私ではない別の演出家の名前をクレジットしてしまったらしい。というわけで、デビュー作に今でも私の名前のクレジットはなくwikiなどにも別の演出家が記載されている。
    暗澹たる船出。
    まあ、私はあまり気にならず、とりあえず作ったものが世に出たことが嬉しかった。

    そのあと、まともに仕事ができる様になったと思えるまで10年くらいかかった。

    とりあえずここまで。