日: 2024年11月2日

  • 神経質な時代なのかも【2024年11月02日】

    神経質な時代なのかも【2024年11月02日】

    今週はへとへと。
    仕事で気力も体力も失って本も読めない。
    のだが、また細かい仕事が増えたりして果たして終わるのだろうか…。

    今週は連休なのだなと、さきほど気づいた。
    昔は連休も土日も関係なく仕事の連絡が来ていたりしたものだけれど、最近は大分少なくなって健全になったものだと思う。
    急ぎの仕事の返信もまだ来ていないもの。

    仕事でちょい驚いたことがあり、それにまつわることをメモ的に記す。

    最近のアニメ制作は、ほとんどが原作ありきの仕事である。
    最近でなくとも原作ものの仕事はずっとあったわけだけど揉め事などの話もよく聞いた。
    しかし、お互いに歩み寄りやら色々あって、ここ10年くらいで作り方は非常に落ち着いてきているというのが個人的な印象。

    もちろん今だに揉め事の話も聞いたりはする。アニメの話ではないけれど、ついこのあいだ原作者が亡くなってしまった事件まであったわけで。
    しかし、トラブルシューティングなどは出版社など権利を持っている側と制作サイドともに随分とノウハウは蓄積されていて、穏やかに仕事が進んでいるところが多いのではなかろうか。
    派手に揉めている話は随分聞かなくなった気がする。
    あるいは揉めてもなんとかなる段階で手を打てているというべきか。

    なんとかなる段階、それはプリプロ。
    絵的には設定画などの確認。
    お話は脚本の段階で、なるべくしっかり合意して揉めないようにしましょう、ということ。

    特に脚本の擦り合わせは昨今非常に重要度を増している。

    さて、過去アニメ業界ではシナリオを軽視する演出家も少なくなかった。
    その理由は色々あると思われる。
    ひとつはアニメに限らず映像化の際に原作を大幅に改変する場合があった。
    もうひとつは、アニメオリジナルの作品が多かった。

    映像化の際に原作を大幅に改変していた理由は色々あるのだろうけど、昔は改変がそれほど悪とされてはいなかった。
    映像は別物としてあまり気にしない原作者も多かったと聞く。

    もうひとつアニメにオリジナル作品が多かった頃は、演出家の裁量でお話をアレンジしてもそれほど問題にならなかった場合も多かったと思われ、そういう文化の中で育った人は、とくに悪気なくシナリオを軽視するということがあったのではないかという気がする。

    実際、私もオリジナルの仕事の時は脚本に沿うことに凄く気を使うということはない。
    といっても、シナリオを軽視しているわけではなく、映像化の際に必要なアレンジや、ノリでこの方が面白いかなといったアイデアを入れるときに凄く気を使はなくて済む、という程度である。
    そもそも面白いお話を作るために脚本会議をやっているわけで、シナリオを無視して作るというのは、その時間を捨てるということなのだから馬鹿げている。
    最近でもオリジナルの仕事で監督が勝手に話を変えて脚本家と揉める、という話も聞くことはあるのだが何故なのか…。

    しかし昨今の原作もののシナリオは、少し繊細である。
    シナリオ会議に原作者が参加する場合も少なくないので、意外に細かなところまで原作者の手が入っている場合がある。
    脚本は原作サイドとの契約書にも似た機能を果たすようになっている。
    なので、監督といえども簡単に改変はできない。
    改変したければシナリオ会議の段階でアイデアを提案するのが筋なのである。

    実際私も大きめの改変を提案することがあるが、それは会議の場で議論される。

    各話のコンテマン、演出家はシナリオ会議での議論を知らないのでシナリオの改変は難しくなる。絵コンテなどは良くも悪くも極力シナリオに沿って描かれる。
    とはいえ、脚本通りに映像を作るというのは無理なので映像化するために多少のアレンジはどうしても必要だ。

    私が原作ものの各話の絵コンテを担当する場合も極力シナリオ通りに作って、明らかに変えた方が良さそうなところがある場合は、なるべく発注の段階で確認する。
    描きながら分かったことは断り書きを入れて直すか、放置して監督に判断を任せるというのがもっぱらだ。

    ノリで作って、それを面白がれた時代もあったのだと思うが、今は良くも悪くも難しい。

    漫画にせよ小説にせよ原作もののお話は一人の人間が描いていることが多いので、どうしてもその人にしか分からない理屈のようなものでつながっている部分がある。
    ブラックボックスのような、その人の頭の中だけにある理屈は創作の魅力にもなりうるものなのだけれど、映像のように大勢の人間が関わって作る創作物の場合は他人と共有できないと理屈そのものが抜け落ちてしまうこともある。
    ブラックボックスはなるべく少ない方が良いし、しかしそれが無くなることも原理的にないと思う。
    すくなくとも監督と共有できていれば作品が大きくずれたものになることはない。

    しかし末端のスタッフの創作性や実務的な問題とどう両立させていくか、というのは悩ましい。

    池田繁美さんが亡くなった。
    夏色キセキの時に一緒に仕事をした。
    ガッチリした分かりやすい設定が印象的だった。
    昔気質の厳しい人であったのだと思うが、私は意外と気安く話してもらっていた気がする。
    昭和の職人たちが亡くなっていくのは仕方ないことだが残念だ。